日々の”楽しい”をみつけるブログ

写真と登山好きのku-(くー)といいます。日々の生活に楽しみをみつけて、紡いでいこうとするブログです。

ふたごの島があった 地名の由来 北九州市の二島 追記

福岡県北九州市若松区に二島(ふたじま)という地区があります。ここの地名の由来について、以前に記事を書きました。

ooitasyuyu.hatenablog.com

 北九州市洞海湾(どうかいわん)には、現在は島はないのですが、以前いくつかの島があったそうで、二島ふきんにはほんとに二つの島があったんだそうです。昭和30に、洞海湾の北側は埋め立てられ、そのときに島はなくなったんだそう。

 

ふたつの島は、それぞれ本島と沖島で、ふたつあわせて二子島と呼ばれてました。

 

今(2017年9月17日現在)、若松区のイオンショッピングモール2Fに、昔の若松区の写真が掲載されています。そのなかに、二子島もありました。

埋め立てのときに陸続きになって、そのときに削られたんだそうですよ。

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庚申塔の形態と 時代の流れを図に表す

庚申塔を探しているとき、この庚申塔

・どの時代のもので

・全体の形態のなかで、どの形態のものか

この二点を頭において分類してみると、「庚申塔の位置」がおおざっぱに把握できるかな…と思い、時間軸と形態で庚申塔を自分なりに整理してみることにしました。参考にした書籍が、庚申塔の研究 (1959年)です。

 

庚申塔の外観は大きく分けると、以下のような4つにわけることができるようです。書籍のなかでは、さらに詳しく分けられていましたが、ぼくは研究者ではないのでざっくりと、自分なりにわかりやすく分けてみました。 

①笠つきのもの

②板状のもの

③柱状のもの

④自然石のもの

 

なかでも②板状のものはバリエーションが多いようですね。板状のもののなかで、庚申塔の初期からつくられはじめたのが「板碑型(いたひがた)」。

年表を見てみると、室町時代庚申塔は、だいたいこの板碑型のものが主流だったようです。はじめは板碑に文字のみが刻まれる形態だったんですね。

それが江戸時代の寛文(かんぶん)という時代から、三猿とか青面金剛が刻まれるようになってきたそうです。板碑型の次に現れはじめたのが、光背型というもの。これは如来像の背中側にある「光背」をかたどったもの。裏っかわは荒削りのまま、下部は蓮座となっているそうです。

 

 

江戸期の承応(じょうおう)という時代に、地蔵が主尊として刻まれたものが出はじめ、元禄(げんろく)あたりまで多く建立されました。といっても、末期まで細々と建立は続いていたそうです。

次に出始めたのが、板付きのもののなかの板状駒型と、笠つきものなんだそうです。

 

これらは元禄(げんろく)あたりが最盛期で、特に板状駒型のものは青面金剛像のための形なんだそうです。

庚申塔時代の末期になると、柱状のものや、自然石のものと簡素な造りの庚申塔が多くなってくるようです。

 

明治時代の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)が始まると、庚申塔が建立されることが、ほとんどなくなってしまいました。

 

これから庚申塔を探すときに、その庚申塔がどの位置にあたるのか確認しながら探してみたいと思います。

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六郷満山(ろくごうまんざん)展に行ってみた 九州国立博物館

九州国立博物館で、平成29年9月13日(水)〜11月5日(日)の期間、「六郷満山(ろくごうまんざん)展」が開催されています。全国からみても珍しい、大分県の国東・宇佐地区の山岳仏教に関する文化が展示されているのです。

 

2017年9月16日土曜日に、この展覧会に行ってきました。

 

以前、ぼくは豊後高田市に住んでいて、国東半島や宇佐の神社仏閣には、おおよそ足を運んだものだと思っていましたが、まだまだ知らない神社仏閣があるものだと改めて感じました。そして展示されている文化財は、これまであまりみたことのないものばかりで、ほんとに展示会へ行ってよかったです。

 

行ってよかった点をまとめるとこんな感じ↓

①まだ知らない、見たことがない文化財が展示されていて

②それを近い距離で、前後左右から拝観することができた

 

近い距離で拝観すると、木造仏だと、こんなに穴があいてボロボロになるんだなという気づきも得られました。そんなボロボロの部分も、京都で拝観したような仏像とは、また違った地域色と感じます。そしてまた、仏様がたの表情の素朴さが魅力的です。

今回の画像は、館内が撮影禁止だったので、九州国立博物館発行の「六郷満山開山1300年記念 大分県国東宇佐 六郷満山展 ~神と仏と鬼の郷~」から引用させてもらっています。

 

富貴寺(ふきじ)大堂で拝観していた阿弥陀如来坐像とは別に、本堂のほうに、この↓三尊が祀られていたとは知りませんでした。

これら三尊は、以前、富貴寺大堂の本尊として祀られていたのだそうです。昭和のはじめころ、三尊は大堂から本堂へ移され、代わりに阿弥陀如来坐像ひとつが、大堂の本尊として祀られるようになったんだそう。(↓こちらが富貴寺大堂。紅葉時期がもっとも美しい)

近くで見てみると、こんなに繊細に彫られていたのか!という驚きがありました。特に、両側に侍している観音菩薩・勢至(せいじ)菩薩立像の繊細さといったら。腕からさがる衣が、細くなめらかで、今にも折れそうな感じです。でも、壊れたところはまったくないそうなんですよ。

 

また、奈多(なだ)八幡宮で保存されているという、こちらの三神坐像(さんしんざぞう)は、以前に実際奈多八幡へ行って拝観しようとしましたが、神社のひとに頼んで拝観させていただかないといけなく、なんだか敷居が高く感じ、頼むことができませんでした。それ以来、ずっと拝観できずじまい。でも今回、やっと拝観することができました。

 

国東半島では、たくさんの石造りの文化財が↓こんな感じで野ざらしで残っていて、それがまた周りの静かな自然とともに、いい雰囲気を醸し出しています。

博物館で見る国東半島の文化財は、また違った印象を受けました。綺麗に展示されていると、なんだか素朴な印象から、高尚な印象に変わるものですね。こんな不思議な感じも、楽しかったです。

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元号と西暦、庚申塔の変遷を合わせて 年表をつくってみた

庚申塔(こうしんとう)がいつ建立されたのか、その記銘を見てみると、”寛政”とか”享保”とか”嘉永”とか聞きなれない年号が刻まれています。これって、だいたい、いつの時代なのかイメージがつかず、なんとなく西暦に直して「1848年か…」とかいって、ぼんやりと流していました。 

やっぱり何基も庚申塔を探していると、だいたいどの時代に、こういう庚申塔が建立されてきたのか、時代の流れの地図のようなものがほしくなってきました。そこで、自分流の地図を作ってみました。

上から下へ時代の流れが表されていて、表の1番左側に時代名、左から2番目に元号(げんごう)を書いています。元号って、何なのかイメージがわかなかったけど、要は平成とか昭和とか、天皇によって変わる時代の名前なんですね。

 

表の一番右は、ざっくりとした庚申塔の時代名です。これは「庚申塔の研究 (1959年)」清水 長輝 (著)という古書を参考にしてつけてみました。

 

例えば、いちばんはじめに写真で載せた庚申塔ならば、建立元号は”嘉永元年”。

西暦でいえば1848年に建立され、庚申塔のなかでも、比較的末期につくられたものだとイメージがつきます。↓こちらが嘉永元年につくられた国見町大熊毛の庚申塔です。

ちなみに末期につくられた庚申塔たちは、数は多くたてられたけど、簡単な文字塔が中心で、形式内容がバラバラのものが多いんだそうです。「庚申塔の研究 (1959年)」

 

そして、発見されているなかで、一番古いと言われる庚申塔は長享(ちょうきょう)2年のもの。室町時代ですね。これは、東京の練馬にあるものらしいです。

ネットで探してみると…ありました。練馬区の公式ホームページに掲載されていました。参照「長享二年の申待板碑 (ちょうきょうにねんのさるまちいたび):練馬区公式ホームページ

これだけ見ると、とても庚申塔には見えず、純粋な板碑のようです。室町時代になってから、板碑には仏教的な要素に加え、民間信仰が結びついてくるようになったそうです。仏教民間信仰が結びついた独特の信仰が、室町時代から広まりはじめられ、そして板碑に申待供養とか、庚申待供養とかの文字が記されはじめたと考えられています。参照:庚申塔の研究(清水長輝著)

 

時代のながれがわかる年表を作ることができたので、これから庚申塔をみつけるたびに、建立年を確認し、それがだいたいどの時代に建立されたのか確認してみたいと思っています。

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小さな神社 砥石面神社の庚申塔 福岡県遠賀郡岡垣町

「砥石面社」という珍しい名前の神社に庚申塔をみつけました。

場所:福岡県遠賀郡岡垣町吉木 砥石面社

地図:Google Maps

 

造られた年は「正徳元年」。つまり、西暦1711年。いまから306年前。ずいぶん古い時代の庚申塔です。庚申塔の「申」の部分が欠けていて、庚申塔の上には見慣れない文字。「奉拝」と書かれているんでしょうか。調べてみると、「つつしんで拝むこと」と書かれていました。尊敬を表す接頭語のようなものでしょう。

神社を遠方からみると↑こんな感じ。神社は民家に隠れており、かろうじて鳥居が見えています。

細い道を、民家の間を縫うように歩いていくと、鳥居が見えてきます。

とても小さな神社です。

↓拝殿の裏っかわにまわると、数基の祠とともに、庚申塔が祀られていました。

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「平川の地蔵」を探しにいったけど見つけられず 代わりに島郷四国48番札所をみつけた

昔の史料を元に、史跡を探訪していますが、史跡を見つけられず帰ってくることがたびたびあります。史料が古く土地開発が進んでいるためか、ぼくが単に探し切れていたいためか、その史跡があると思われる場所にいっても、空振りに終わることが多いです。

「平川の地蔵」も、そんな史跡のひとつ。今回は見つけられませんでした。「北九州の史跡探訪」(北九州史跡同好会)によると、「平川の地蔵」はこんな云われが残っています。

 

享保大飢饉の時、小竹村のお菊、千代松の姉弟は山鹿で御救い米が開かれると聞き、二人携えて二里の山路を越そうとしたが、ここで力尽きて倒れ餓死。後の人が憐れんで供養した。

示される地図のあたりに行ってみました。地図でピンポイントで示すと次のようになります。

 

地図:Google Maps

場所:北九州市若松区大字小竹字平川

 

↓写真のようなゴミステーションがある隣の土地に、古い墓地がありました。お地蔵さまが祀られている場所らしいところは、この場所だと目ぼしをつけて、行ってみることにしました。

古い墓石がたくさん林立しており、そのなかにお地蔵さまが見えます。でも、史料に載っているようなフォルムのお地蔵さまは見当たりません↓

さらに奥のお堂にも、何体か祀られているようです。そちらにも行ってみました↓

しかし、こちらにも「平川の地蔵」と思しき、お地蔵さまは見当たりませんでした。平川の地蔵は、右手に杖のようなものを携えているのですが…みつかりませんでした。

それにしても、ここは「島郷四国48番札所」で、いつか周ってみたい「島郷四国八十八ヶ所霊場」のひとつで、思わずの収穫でした。48番札所の本尊は、十一面観音菩薩のようです。

他のサイトを拝見させていただくと、平川の地蔵が写真におさめられているので、必ずこの付近に祀られていると思われます。日を改めて探してみたいと思います。

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芦屋町の宝篋印塔(ほうきょういんとう)

大分県の国東半島にある寺院では、宝篋印塔(ほうきょういんとう)をたびたび見かけていましたが、福岡県ではこれがはじめての対面です。google mapを眺めていると、たまたま「宝篋印塔」という文字を見つけたので、ちょっと立ち寄ってみました。

こんなに立派な宝篋印塔が、こんなに良好な状態で残っているんですね。宝篋印塔は、お経を内部におさめている塔のことで、今でいう塔婆(とうば)のような役割を持っている石造りの塔のようですね。塔婆は、古いお墓に立っている木製の板です。

つまり、この宝篋印塔は亡くなったひとを供養する目的で立てられたようです。では、だれを?

 

案内の看板を見てみると、1797年…つまり今から220年前、福岡県遠賀郡芦屋町の山鹿という地区で、大火事があったそうで、そのときに亡くなった人たちを、豪潮(ごうちょう)というお坊さまが供養したようです。

場所:福岡県遠賀郡芦屋町幸町2−6

地図:Google Maps

 

google mapには「海雲寺の宝篋印塔」と表示されていますが、すぐそばにあるお寺の名前は安養寺。なにか理由があるのかなと思っていると、「海雲寺跡[天台宗][福岡県遠賀郡芦屋町中ノ浜5-16]-お寺めぐりの友)」のサイトに海雲寺の跡地に、その名残の宝篋印塔が残っている…と書かれていました。この広い敷地は昔のお寺の境内だったんですね。

 

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