日々の”楽しい”をみつけるブログ

福岡県在住。九州北部を中心に史跡を巡っています。巡った場所は、各記事に座標値として載せています。座標値をGoogle MapやWEB版地理院地図の検索窓にコピペして検索すると、ピンポイントで場所が表示されます。参考にされてください。

大分県の唐揚げでここははずせません 玖珠郡 鶏料理専門店 竹やぶ

スーパーの唐揚げと、専門店の唐揚げって、どうしてこんなにおいしさが違うんだろう?

 

もともと使っている鶏の違い?

鮮度の違い?

鶏肉の下ごしらえの違い?

味つけの違い?

 

素人なので、なんにもわかりません。

 

ただ言えるのは、大分県玖珠郡にある竹やぶの唐揚げはおいしいということです。大分県の唐揚げといったら中津市や宇佐市が有名ですが、竹やぶさんがあるのは玖珠です。

 

竹やぶの場所:大分県玖珠郡玖珠町戸畑 玖珠町大字戸畑1041-2

現在地から竹やぶGoogle マップ

予約をしておくと年末年始にも購入でき、正月早々からお世話になりました。年末も大忙しの様子でした。

 

竹やぶさんの唐揚げは、冷めてもやわらかくておいしいんです。でも、揚げたてが一番おいしいに決まっています。

 

竹やぶさんは唐揚げ専門店じゃなく、鶏料理専門店というくくりのようで、唐揚げのほかにも、焼き鳥、肝さし、たたき、ずりさし、皮のからあげなども扱われていますよ。

なかでも個人的に好きなのは、やっぱり焼き鳥。皮はそのままだと味にパンチがないので、塩をふりかけて食べるのがいいかも。身のほうは、なにもつけなくても、しっかり味がついてます。

 

ということは、やっぱり身に味がしみこむように、下ごしらえをされているんでしょうか。

 

焼き鳥にしても、冷えても鶏肉特有のモサモサ感がなく、しかも脂っこくないので、ついつい食べ過ぎてしまいますね。

洪水のとき溺れる人を守った? 豊前坊山 福岡県遠賀郡水巻町

なんともない田園風景ですが、↓下の写真の小さな山は豊前坊山という、ちょっとした伝承の残る山です。場所は福岡県遠賀郡水巻町。この山に登れるかどうか試してみました。この山にまつわる伝承とともに、豊前坊山に登る行程をご紹介します。

伝承は「水巻昔ばなし」(柴田貞志 著)の内容をそのまま引用します。この史料は、昭和61年に発行されていますが、平易な文で書かれているので、とてもわかりやすいです。

 

難しい言葉で書かれそうな伝承も、読者の立場に立って「こっちこっち」と、理解へと導いてくれるので、こういう本はとてもありがたいですね。

 

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むかし筑前国朳(えぶり)村の遠賀川渡しに、親娘(おやこ)の渡し守りが住んでいた。

二人とも評判の正直者で父親の利助は雨の日も風の日も毎日、旅人を川船に乗せて広渡村との間を往復していた。

また渡し場のすぐそばに茅(かや)ぶきの小さな家があって、娘のミツは、そこで家事をしながら菓子やワラジなどを売っていた。

ミツは船頭の娘にしてはまれにみる器量よしで、そのうえ幼いときから川のそばで洪水や飢饉などの、世の中の悲しい出来事をみてきたので、心のやさしい内気な娘であった。

年ころになったミツは、生まれつきの美しさにしとやかさが加わって、ちょうど岩かげに咲いた白百合のようで、川を渡る旅人はもちろんのこと、近郊近在の若者たちのあこがれの的であった。

 

もっともミツには思っている若者がいた。それは朳(えぶり)村の水呑み百姓で、みなから正直者の松吉といわれた男で、松吉が川に魚とりにいったのが縁で、二人は言葉をかわすようになった。

しかし内気でやさしいミツのこと、それはおもてに出さず、ただ心のなかで思っているだけであった。

ある日のこと、父親の利助が、

 

「ミツ、お前も年ころになったので、お嫁に行かなくてはなるまい、しかし、お前に好きな人があれば別だが…」と、それとなく問うてみた。

しかし内気なミツのこと、それには答えず、ただ下をむいて黙っているだけであった。

十日ほどして利助は、ミツに好きな若者がいないと思ったのか、今までの降るような縁談のなかから、二人の若者を選んで連れてきた。 

そしてミツにいった。

 

「この二人のどちらか好きな方を婿に選ぶがよい」

 

その一人は庄屋の息子で家柄がよくて大かね持ち、もう一人は文武両道にすぐれた若侍で体が大きくつよそうで、どちらも好男子であった。

ミツは、その場では答えず、返事を明日に延ばしたので、その晩、二人は朳村に泊ることにした。

 

ところが夜中から、天の底が抜けたような大雨、そのために遠賀川はまたたく間に氾濫して大洪水となった。

 

 

夜があけると親子は、川のなかにとり残されて濁流のなかにあった。しかし利助は上流から流れてくる人を助けるために、船を出さなければならないので、あとはミツだけが残った。

ところが水かさはますます増すばかりで、ついに家に残ったミツは屋根の上から朳村へ助けを求めたが、さか巻く濁流のなか、だれひとり助けにくる者はなかった。

ミツは、もうこれまでと思ったとき、一人の男がザンブとばかりに濁流へ飛び込んで、泳いでくるのがみえた。

ミツはてっきり利助の連れてきた、庄屋の息子か若侍ではないかと思った。

しかし抜きてを切って近づいてきたのは、水呑み百姓の松吉であった。その松吉がミツの手をつかむと同時に、家は流されて濁流のなかへ放り出された。

二人は古賀の村境いまで流されて、もうこれまでと生きてきたことを感謝して、抱き合って沈んでいった。

 

ところが神の助けであろうか、すぐ水底に足がとどいて、濁流はまたたく間に引いていった。

 

「助かった…」

 

二人はホッとして周囲をみわたすと、なんと小高い山の上に立っていた。村人たちは正直者の二人を助けるために、そのとき山ができたものと思い、それからはこの山を神として祀るようになった。

しかも、山は洪水のたびに人を助けたので次第に高くなり、今では豊前坊山といって、あがめられる山になったという。

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と、ここまでを豊前坊山の山頂までの行程を写真で紹介してみました。山頂は残念ながら草木がボウボウで見通しは悪かったです。樹々の間から遠賀郡や遠賀川を見おろすことができましたが、樹々がなければさぞかしいい景色でしょう。

下山は、上の地形図に記された軌跡のように、登り口の久我神社とは反対側に降りることができました。

降り口は住宅街となっていて、ちょうどアパートの裏っかわの墓地に降りてくるかたちとなりました。

豊前坊山の伝承には、まだ続きがあって、以下のように朳伊豆神社(えぶりいずじんじゃ)に祀られる庚申塔(こうしんとう)にもつながりがあるのでした。 

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なお松吉とミツは結ばれて、夫婦仲よく渡しもりをしたというが、のちに夫婦は豊前坊山の形をした石を採ってきて、旅人を守る庚申塚(こうしんづか)を遠賀川のほとりにつくったのが、朳(えぶり)の庚申塚であるといわれる。

 

その後、庚申塚は川の回収工事のため移転させられて、今は朳伊豆神社境内に祀られている。【「水巻昔ばなし」(柴田貞志 著)

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こちらが、松吉とミツがつくったといわれる庚申塚

一見すると、なんともない田園風景の場所でも、残っている伝承とともにその地を歩いてみると、楽しい発見がありますね。

 

大分県日田市の神社めぐり 三隈三山のひとつに祀られる日隈神社

大分県日田市にある日隈神社(ひのくまじんじゃ)。日隈山という110mほどの小さな山の上に祀られてる神社に昨年末(2016年12月31日)に行ってきました。日隈山は、日田を流れる三隈川(みくまがわ)の中州に、ぽっこりと出っ張っているなんとも風流な山です。

伝承が残る三隈三山(みくまさんやま)ひとつだったので、行ってみたかった場所です。 

ooitasyuyu.hatenablog.com

 月隈山、星隈山、そして日隈山…と、これで三隈三山をすべていくことができました。

以前、ここには日隈城も建っていたそうで、その城塁が今も残ります。そういった予備知識はなかったので、サクサクと歩いて山頂まで行ってしまいました。

三隈山のふもとには、広い公園があったので、年末だったのですが、たくさんの家族が遊んでいました。でも境内はひっそり。

↓写真をみていただくとわかるように、けっこう急斜です。三隈三山は平地のなかに、不思議なほど、ぽっこりと丘ができています。どうやってできたのか?これは阿蘇山などの火山からでた溶岩が、川の浸食をうけて変化し、今のぽっこりつきでた丘の形になったんだそうです。

 

話はかわって日隈神社の境内に、松方神社跡という立札があります。以前は別の神社が建っていたのでしょうか?

文字だけでは説明がわかりにくかったので、図にして日隈神社の成り立ちを表してみました。図にすると、なかなかスッキリするものです。

 

この日隈山には初め、春日神社が建っていました。

1601年に、春日神社は日田の田島村という場所に移転されました。

1856年、また春日神社はもとの場所に戻されました。

1868年、神仏分岐の動きがでてきました。日田の光岡村という場所にあったお寺、永昌寺に二人の神様が祀られていましたが、お寺に神様を祀られなくなったので…

1870年に日隈山に日隈神社を建立し、二人の神様を祀るようにしました。この時点で、日隈山には春日神社と日隈神社があったと思います。

1920年に、春日神社が日隈神社に合祀(ごうし)して、ひとつの日隈神社になりました。

1924年に初代日田知事の松方氏の功績をたたえ、地元の人たちが松方神社を建立しました。

だけど、太平洋戦争が終わってから、GHQによって松方神社を解体するよう指示がありました。そのために、松方神社の社殿、鳥居、玉垣がそれぞれ別の場所にもっていかれました。

だから、今は日隈山には日隈神社ひとつが祀られています。

 

なんだか複雑な経緯をたどってきた神社です。これを文字だけの看板だけで理解するのは難しいですね。

 

松方神社の跡は、日隈神社の境内にあります。↓この鳥居のすぐ横です。

大分県日田市 伝承の残る「三隈の山」のひとつ 星隈山へ行ってみた

大分県日田市にいって伝承の残る三つの山を訪ねてみました。以前に、三つの山を訪ねてみたいと記してから、3か月ほどの月日が流れました。

 

ooitasyuyu.hatenablog.com

 日田市には日隈(ひのくま)、月隈(つきくま)、星隈(ほしくま)という3つの丘があって、総称して三隈三山と呼ばれます。それぞれ標高が100mから110mほどの小さな丘。でも、それぞれの山上には、興味深い史跡が残っていて、訪ねて楽しかったです。

 

三つの山のうち、写真に残せているのは二つ。日隈と星隈です。今回は星隈山をご紹介してみます。

 

昔、日田盆地は湖で、大ワシがこの湖で羽をひたし飛び立っていくと、湖の水が抜け干潟となりました。そして月隈、日隈、星隈の三つの丘が現れたという伝承があります。

 

星隈山は↓こんな感じ。平地に100mほどの小山がぽっこりもりあがっています。

実際、行ってみると↓下の写真のように急斜面をのぼっていきます。この↓急階段のすぐ下に1台だけの駐車スペースとトイレ。

階段の途中から目の前の住宅街を見おろす↓

星隈山は脇道がたくさんあったので、一度駐車場まで引き返し、トイレ横の脇道から別の参道を探してみました。目指すは山頂の星隈神社

トイレ横の脇道だと思っていた道が、実はメインの参道?しっかりした鳥居があって、山頂まで一直線に伸びる石段があります。

青面金剛の庚申塔が階段脇に祀られてたり…

お堂も建てられてます。

こちらのお堂にも、猿田彦大神の庚申塔が祀られてます。

 

↓こちらが山頂の星隈神社境内。

山頂にも祠と記念碑。

山頂からは目の前を流れる花月川が見おろせます。

月隈・星隈・日隈の三山のなかでは、ちょっとマイナーな印象の星隈山。訪れる人は少ないようですが、ちゃんと手入れされている綺麗な境内でした。おそらくこの山の近くに住んでる方々が守っているんでしょうね。

ドライブで小腹がすいたときに最適のおやつ 道の駅「小石原」の高菜饅頭

これはおいしい。ひとつ145円と、ちょっと値段が高めのまんじゅうですが、コンビニで高めのおにぎりを買ったと思えばいいのかも。

辛めの高菜がまんじゅうの中にぎっしり。まんじゅうの生地がほんのり甘い。甘く感じるのは高菜が辛いからなのか。

甘いお菓子って感じじゃないとき、この高菜饅頭は試してみる価値がありますよ。

 

道の駅「小石原」の場所:福岡県朝倉郡東峰村小石原941−3

現在地から小石原:Google マップ

小さなお堂でも その縁起をたどると土地の歴史がみえてくる 福岡県 水巻町の長谷不動尊

前回の記事で”不動下”という字名の場所に不動明王が祀られている場所をご紹介しました。 

ooitasyuyu.hatenablog.com

 

ここの不動明王さまは、もともと参拝に不便な小高い山の上に祀られていたのを、炭坑で働く人たちが参りやすいよう、山の下に移動したという話を前回の記事に書きました。

 

ではもともとあった場所の不動明王さまは?

 

今回はそのもともとあった場所の不動明王さまをご紹介します。場所は”不動下”と同じく、福岡県遠賀郡水巻町です。

 

水巻町の略図を下に示します。

地図の中央付近に、不動下という字があります。ここが前回の記事で紹介した場所。そして不動下から東へいった場所に、もうひとつ不動明王さまが祀られる「長谷不動尊」があります。

 

長谷不動尊の場所:福岡県遠賀郡水巻町中央18-1

現在地から長谷不動尊:Google マップ

 

ここに不動明王さまが祀られるいわれが「水巻昔ばなし」(柴田貞志 著)に書かれてます。要約すると以下のようになります。

 

室町時代。足谷次郎という野武士が、ここ長谷に住みついた。足谷はたいへんな信仰家で、のら仕事のかたわら熱心に大日如来を信仰していた。

これをみて、仏さまのご加護を願っていた村人たちは、足谷の熱心な信仰に動かされて、彼にしたがうようになった。大日如来の慈悲にすがって生きてきた甲斐があって、周囲の村で飢饉による餓死者がでた年でも、長谷ではみんなで食料をわけあって生き延びることができた。

 

足谷次郎は、その後、飢餓魔を退散させるために不動山に不動明王堂を建立した。

これが今残っている不動山の不動明王像のある場所です。

 

現在では、こんな感じの広場になっています。

広場には数体のお地蔵さまと、一番奥に不動明王さまが祀られます。

この不動明王さまが祀られたのは、400年も前にさかのぼるんですね。ちなみにこの場所には炭坑殉教者の碑も建てられています。

というのは、不動尊のまわりでたくさんの白骨が発見されたそうで、近くの梅ノ木の炭坑で亡くなった無縁仏を、この場所で葬っていたということです。

 

炭坑がさかえていた時代、この場所は町からちょっと離れた場所にあるので、集団墓地としての役割を担っていたんでしょうか。

 

地形図で、この不動明王さまが祀られている場所を確認すると、標高は30m程度の小高い丘という感じです。ここからは目の前にある水巻中学校や、水巻の町を見おろすことができます。

不動下という字名(あざな)にある不動明王

小さな小さなお堂にも、それが建てられた当時には、建てた人たちの想いがあるのですね。

 

福岡県遠賀郡の水巻という場所に、梅ノ木という名前の団地があります。下の地図だと右側あたりに示しています。この梅ノ木団地の北側に、不動下という字(あざ)の場所があります。
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不動下は10数メートルの小高い山になってて、ここに不動明王さまが祀られてます。

 

不動明王さまが祀られてる場所は、不動下から西側に350メートルほど行った不動山(400メートルちょっとの標高)の上にもあります。

 

どうして2ヶ所も、同じ不動明王さまの祀られる場所が、こんなに近い場所にあるのでしょうか?

 

実は、もともと不動山に祀られてた不動明王さまを、山のふもとにある不動下にまで移動させたのだそうです。これは、梅ノ木団地の場所に、昔あった炭坑で働く人たちのために配慮されたものでした。

 

高い不動山にまで登らなくても、不動明王さまを詣れるように、山のふもとの不動下に不動明王さまを祀りました。

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大日如来さまが、害悪を追い払うために恐い姿となった現れたのが不動明王さまといわれています。不動明王さまが祀られたのは、炭坑地帯ならでわの事故や、病気などの災いが降りかからないよう、地元の人たちが願ったのでしょう。

 

 こちらが不動下のお堂です↓ 

郷土の史料を読んでいくと、いまでは思いもよらない昔ばなしを知ることができます。

 

不動山の不動明王さまにもお詣りに行ったので、そちらの記事も後日アップしたいと思います。