日々の”楽しい”をみつけるブログ

福岡県在住。九州北部を中心に史跡を巡っています。巡った場所は、各記事に座標値として載せています。座標値をGoogle MapやWEB版地理院地図の検索窓にコピペして検索すると、ピンポイントで場所が表示されます。参考にされてください。

月に2000人の登山者がいる城山(じょうやま)登山 福岡県宗像市

福岡県宗像市にある城山(じょうやま)に登ってきました。今年の1月に直方市にある福智山に登って以来、ほんとに久しぶりの登山です。標高は369mと低く、登山道もしっかりと整備されている上、なんと一か月に2000人近くの人が登るそうなので、安心して登れる山です。

 

 

↓これは山頂に表示されている一か月ごとの登山者の数を記載した看板です。2017年8月には、1980人登られたそうですよ。

今回は日曜日に登ったわけですが、早朝にもかかわらず、山頂にはもう先客がおられました。一番メジャーな登山口は「教育大登山口」という場所だそうです。教育大というのは福岡教育大のこと。こちらの登山口では、駐車場とか、水飲み場なんかがあるそうです。ぼくは、こちらには来ず、上畑という地区から登ることにしました。上畑登山口は、ネットで調べると、あまり人がいないそうなのでゆっくり、自分のペースで登れそうだったから選びました。

往復での移動距離が3.3㎞、累積標高606m。1時間半もあれば、行って戻ってこれそうなコースでした。今回、こちらのコースで出会うひとはおらず、ちょっとクモの巣に難儀しました。

 

登山口にある敷島稲荷神社には車が5台ほどは停められそうなスペースはありました。ここに駐車させてもらいました。

そばにある溜池を横にみながらのスタートです。

↓スタートしてすぐ分岐がありますが、右側は民家へと続くので、登山道は左側。

登山道の途中に、敷島稲荷上社があるのですが、そこまではコンクリートで舗装された道を進むかんじです。といっても、道には落ち葉や土がかぶさり荒れ模様です。

杉林から竹林へ風景が変化していきます。

↓そして上社手前からは荒れた石段がずらっと現れます。

石段を登りきると敷島稲荷上社がみえてきました↓

↓ずいぶん古そうなレンガの柱が傾いています。

↓上社の前を通りすぎ、さらに上に伸びる登山道を進んでいきます。

このあたりは急な斜面が続きますが、ここから5分ほど歩けば尾根へ出て、比較的楽な道となります。

↓尾根道にでました。

↓ベンチとか、「山頂まで200m」などの標識が要所要所にあります。

尾根道にでても、意外と凸凹道があります↓

↓この凸凹加減は、以前どこかで見たことがあります。

国東半島の屋山(ややま)に登ったときのことを思いだし、そのときの記事を見返すと、これと同じような凸凹を体験していました。

 

ooitasyuyu.hatenablog.com

 

城山には昔、山上にお城が建っていたそうですが、国東半島の屋山にもお城が建っていたそうです。そして、城があった痕跡として竪堀(たてぼり)と堀切(ほりきり)というものが登山道に残っていました。

 

・竪堀(たてぼり)

敵が登城するとき、横方向に移動しにくくするためにつくられた堀。

 

・堀切(ほりきり)

敵が攻めてきたとき、侵入防止のためにつくられた堀。

 

城山の、この凸凹は堀切(ほりきり)ではないかと思いました。たしか、2か所ほど、この堀切と思しき凸凹が城山にはみられました。

 

そして、山頂すぐ手前には石垣がみられました。

 

だいたい、この場所には郡界石をみることができました。

おそらく郡界石と思うのですが、ネットで城山に郡界石があるのか調べてみてもヒットしませんので詳細は不明です。

↓なかなか刻まれている文字を解読するのは難しいです。

わかる範囲で自分なりに書いてみると以下のように判別できました↓「□」の部分はわからなかった文字です。この地区の昔の地名を探してみると、刻まれている文字がわかるかも。

↓こちらは「40 郡界」と刻まれているようですが、40というのは、何を表す数字なのかはわかりません。

↓石垣をすぎると、山頂は目の前。小屋の横をとおりすぎ、最後の階段を登ると…

大きな石灯籠が建てられた山頂に辿り着きます。

↓ここからは沖ノ島も拝めるようです。

↓登山したことを記録するノートが置かれている小屋。

↑記帳しているひとだけでも、ひと月に2000人近く。記帳していない人も含めると、もっとたくさんの人が登頂しているのかもしれません。

↓山頂から福岡教育大方面を眺めた景色です。右下にあるグラウンドは、城山中学校のグラウンドのようです。

 

 

↓城山山頂から、さらにとなりの金山まで縦走ができるそうですが、今日はやめておきます。もし仮に、金山まで行って、来たルートを戻ったとしても8㎞くらいの行程です。なまった体を鍛えなおすには、ぼくにとってちょうどいいくらいの距離です。

気軽に登れる山なので、また来てみよう。今日は一眼レフを持っての登山でしたが、次回はもっと軽装で、金山まで行けるようにしたいです。

 

八剣神社の庚申塔 北九州市若松区小敷

場所:福岡県北九州市若松区小敷 八剣神社

地図:Google Maps

 

自然石型のシンプルな庚申塔。「庚申尊天」とのみ刻まれ、成立年月日などは刻まれていなかったために、詳細は不明。

 

今、どんどん住宅地がひろがっている若松区の「ひびきの」という地区。最近、「ひびきの小学校」が平成29年4月から開校され、これからもさらに住宅や産業施設が増えていくと予想される地区です。

 

そんな地区近くに八剣神社はあります。

神社の一の鳥居では海抜ほぼ0mで、社殿のある境内は21mほど。けっこう急な階段を上っていきます。

この社殿の裏っかわに、数基の祠とともに庚申塔は祀られていました。

北九州市神社誌」(北九州史跡同好会)によると、八剣神社の祭神は、大和武尊、菅原神、武内宿祢命、豊臣秀吉とある。

 

ちょっとよくわからなかったのが、祭神は祭神でも、「神社記祭神」とか、「神社記相殿」という他の記載がある。祭神と神社記祭神とでは、記載されている神様が違うようです。祭神は前記のとおり、大和武尊、菅原神、武内宿祢(たけしうちのすくね)命、豊臣秀吉。そして神社記祭神は、日本武尊神功皇后応神天皇でした。

 

祭神と神社記祭神とでは、何がどう違うのかよくわかりません。記録されている書物が違うのかな…

 

また、神社記相殿という記載もあるが、これはどうも祭神が主の神様である一方、相殿というのは、それ以外の神様という意味を持つらしい。”それ以外の神様”は相殿神(あいどのしん)と読むそうです。ちょっと勉強になりました。

 

ちなみに、八剣神社の相殿神素戔嗚尊(すさのおのみこと)、大国主(おおくにぬし)命、猿田彦命、大物主(おおものぬし)命、大年神(おおとしのかみ)、菅原道真です。

 

庚申塔以外の祠には、石造りの素朴な神様が祀られていました。

小学生のころのかすかな記憶の場所に行ってみたい 北九州市八幡西区三ツ頭

筑豊の近代化遺産」(弦書房)という書籍で、三松園という場所が紹介されています。

 

場所:福岡県北九州市八幡西区三ツ頭1丁目11−20

地図:Google マップ

 

この場所は、個人的にちょっと気になる場所です。書籍のなかでは、以下のように紹介されています。

 

ここは日本炭礦の前身三好鉱業の経営者三好徳松が、炭鉱で亡くなった鉱夫の供養を行うために昭和四年に開設したもので、現在も約一九〇体の仏像が山の斜面に沿って安置され、附近に診療所も現存する。

 

多くの仏像が、山の斜面に沿って安置され…という部分。たしか、ぼくがまだ小学生のころ、三松園のあるふきんを探検して、山の斜面に仏像がたくさんある場所をみつけたのをかすかに記憶しています。

 

斜面を登っていくと、小山のてっぺんに、台座に大きな観音様がまつられていた記憶があります。霞みがかった記憶なので、小学生のとき行った場所と、書籍で紹介されている場所とが合致するかは定かではありませんが、今回、足を運んでみて、ふと昔のことを思いだしました。

 

記憶と書籍の場所が合っているのか確信できないのは、ずいぶん景色が変わっていたからです。三松園のそばには、寺社があると書かれていますが、その寺社というのが遍照院というお寺と、須賀神社という神社。↓こちらは遍照院本堂横の景色です。

↑写真の左奥に階段がありますが、ここからどうも山の斜面に続く道があるのではないかと思います。思います…というのは、実際にはこんな感じ↓。草木がぼうぼうで、足を踏み入れることができませんでした。

 でも、草木の間を目を凝らしてみてみると、観音様が何体か祀られているのが確認できました。小学生のころの記憶だと、こんなに草木はぼうぼうではなく、山肌が露出していたように感じます。そして、つづら折りの坂道が尾根まで続いていたように記憶しています。

 

書籍には、↓このような「三好徳松君像台座」というものが残されていると書かれていました。

 

でも境内のどこを探しても、見つけることができませんでした。草木でぼうぼうの山道先にあるのかもしれないと思い、家に帰って、google mapの衛星写真で確認してみました。すると、たしかに「三好徳松君像台座」と、その隣の鳥居らしき建造物がありました。境内からわずかな距離ですが、完全に草木でかくれていたんですね。

さらに、小学生のときの記憶で、この山道を登っていくと、尾根付近にあると予想される観音様を探してみると、かすかに緑のなかに異質なものが確認されます。これが、昔みた観音様なのか?↓ 

 さらに向きを変えて、拡大してみると↓ふたつの建造物が確認されました。

たしか、記念碑のような石塔と、観音坐像があったような…この画像をみてから、小さいころの記憶と、この場所が合致しているのに、だんだん確証がもてるようになりました。いつか、この場所に再訪してみたいな…

 

地形図で確認してみると、わずかに山道が残っているようです。

はじめてみつけた馬頭観音さま 福岡県嘉麻市

最近、「筑豊の近代化遺産」という本をみつけて、この本を元にして、史跡めぐりをしています。

 

ふだん通り慣れているこの場所に、こんな歴史があったんだな…なんて情報が掲載されているために、読んでいて楽しい本です。今回、「筑豊の近代化遺産」を見て周ってみた場所は、福岡県嘉麻市にある”稲築町制40周年記念公園”という場所です。この公園に、馬頭観音が祀られているという情報を見つけました。

 

馬頭観音は、これまでネット上や、書籍でみたことはあるけど、実際にお目にかかったことがありませんでした。牛馬を供養するために祀られる観音様ということですが、ここ嘉麻市馬頭観音は、炭坑が盛んな時代、石炭を運んでいた馬を供養するためのもののようです。

炭坑の外だけでなくて、炭坑の中でも馬が使われていました。坑内では落盤事故もあり、このような事故で死ぬ馬は多かったようです。

 

以上のような予備知識をもって、”稲築町制40周年記念公園”へ向かいました。公園には、じゅうぶんな車台数を停められる駐車場があり安心です。公園は標高53mほどの小山になっています。目的の馬頭観音は、公園の東側の斜面中腹あたりに祀られています。

場所:福岡県嘉麻市

地図:Google マップ

公園の東側をはしっている道を、公園沿いに歩いていると、↓下写真のように、公園側へ上っていくゆるやかな坂道がみつかります。

草ぼうぼうで、こちらでいいのかなと、ちょっと不安になる道でした。

この道を100mほど進むと十三仏が、小屋のなかに祀られているのが見えてきました。

小屋の傍らにある巨木の根元に、馬頭観音が祀られていました。

非常に精巧につくられていて、指一本一本まで表現されています。

 

三面の顔に、右手にヨウキ(斧の一種)と石刀(せっとう;ノミを打つ金槌)、左手に火薬壷とノミを持ち、銘に「昭和壱拾参年十月吉日 金丸利作」とある。

 

筑豊地方の郷土資料館 一覧

郷土史料集めのためのメモです。福岡県各地域の史料をしらべるのは、各地域の史料館などをまわるのが手っ取り早い。史料館には、一般の本屋さんには売られていないような、地元の情報が詳しく書かれた郷土史料が置かれているのがありがたいですね。

 

筑豊地方の博物館や史料館を、以下にまとめてみました。調べてみると、個人的にまだまだ行けていない場所があるので、これから行けるのが楽しみです。

 

ちなみに筑豊地方というのは、石炭産業でさかえた地域。筑前国の「筑」、豊前国の「豊」をとってきてつけられた地方名です。具体的な地名を列挙すると…

 

飯塚市

嘉麻市

嘉穂郡

鞍手郡

田川市

直方市

宮若市

 

これらの地域にある博物館、史料館はこんな感じです。

 

わかちく史料館

場所:福岡県北九州市若松区浜町1丁目4−7

地図:Google マップ

 

 

折尾高校「堀川ものがたり館」

場所:福岡県北九州市八幡西区大膳2丁目23−1

地図:Google マップ

 

 

北九州市長崎街道 木屋瀬宿記念館

場所: 福岡県北九州市八幡西区木屋瀬3丁目16−26

地図:Google マップ

 

 

中間市歴史民俗資料館

場所:福岡県中間市蓮花寺3丁目1−2

地図:Google マップ

 

 

芦屋歴史の里・歴史民俗資料館

場所:福岡県遠賀郡芦屋町山鹿1200

地図:Google マップ

 

 

水巻町歴史資料館

場所:福岡県遠賀郡水巻町古賀3丁目18−1

地図:Google マップ

ここで販売されている「水巻昔ばなし」(柴田貞志著)は、詳しい地元情報が記載されています。

 

直方市石炭記念館

場所:福岡県直方市直方692−4

地図:Google マップ

 

 

宮若市石炭記念館

場所:福岡県宮若市上大隈573

地図:Google マップ

 

 

鞍手町歴史民俗資料館

場所:福岡県鞍手郡鞍手町小牧2097

地図:Google マップ

 

 

飯塚市歴史資料館

場所:福岡県飯塚市柏の森959−1

地図:Google マップ

 

 

飯塚市穂波郷土資料館

場所:福岡県飯塚市秋松407−1

地図:Google マップ

 

 

嘉麻市稲築ふるさと資料室

場所:福岡県嘉麻市岩崎1143−3

地図:Google マップ

 

 

嘉麻市碓井郷土館

場所:福岡県嘉麻市上臼井767

地図:Google マップ

 

 

嘉麻市山田郷土資料室

場所:福岡県嘉麻市上山田451−3

地図:Google マップ

 

 

王塚装飾古墳館

場所:福岡県嘉穂郡桂川町寿命376

地図:Google マップ

 

 

田川市石炭・歴史博物館

場所:福岡県田川市伊田2734−1

地図:Google マップ

 

 

ふるさと館おおとう

場所:福岡県田川郡大任町今任原1666−2

地図:Google マップ

 

 

香春町歴史資料館

場所:福岡県田川郡香春町高野987−1

地図:Google マップ

 

 

糸田町歴史資料館

場所:福岡県田川郡糸田町2023−1

地図:Google マップ

 

こうやってまとめてみると、まだ半分も行けていないんだな、ということがわかりました。

 

8頭の竜が祀られるという坊ヶ渕へ行ってみた 北九州市若松区安屋

以前、北九州市若松区安屋(あんや)という地区にある笠松神社へいったとき、二の鳥居に「八大龍王」という文字が刻まれていました。八大龍王のルーツをたどると、同じく安屋という地区にある坊ヶ渕という場所に、8頭の竜が祀られており、雨乞のときこの竜に拝んでいたという話が残っていることがわかりました。

 

ooitasyuyu.hatenablog.com

 

今回は、8頭の竜神様が祀られるという坊ヶ渕へ行ってみました。坊ヶ渕への道案内は、この「北九州の史跡探訪」が役割を果たしてくれました。

google mapでいうと、このあたり↓

場所:福岡県北九州市若松区安屋279

地図:Google マップ

 

実際、その場所に行ってみると、市営バス停に「坊ヶ渕」という名前が付けられていました。おかげで、この場所が目指す場所なんだという確信がもてました。

でも、でも、この坊ヶ渕ふきんをいくら探しても、竜神様が祀られていそうな祠や、石造物などは見当たりませんでした。

なんとも残念でした。予想だと、石の祠が祀られているものだと思っていました。もしかしたら、このボウボウの草むらのなかに隠れているのかも…あるいは、道路の拡張工事で別の場所に移動されたのかも。

 

残念ではあるものの、別の収穫がありました。

道ばたに、こんな祠があり、中に大日如来像が祀られています。

場所:福岡県北九州市若松区安屋280

地図:Google マップ

これは、島郷四国八十八ヶ所霊場というもので、

 

・400年ほど前に

・香山彌次郎重治という人が

・四国に渡って八十八ヶ所の霊場を歩き、各霊場の砂を持ち帰って

・景勝の地や由緒ある場所に埋めて祀った

 

ものなんだそうです。参照:北九州市にある「島郷四国八十八カ所」ついて知りたい。 | レファレンス協同データベース

 

島郷四国八十八ヶ所霊場について、ちょっとした知識は持っていましたが、実際はじめて見るのはこれが初めてでした。あったんですね。しかも、ちゃんと花も供えられてて、大事に祀られていそうです。

 

島郷四国八十八ヶ所霊場については、しっかりと、その場所がまとめられているサイトはないらしく、ネット上では探せませんでした。どうも、『島郷の史跡と伝説』という古い書物を調べると、88か所(実際には130か所ほど)の場所が掲載されているようです。図書館なんかにいったら調べられるかな。

庚申塔で地域性を読み解く

2017年7月30日に、福岡県糸島市に足を運びました。おいしいものはないか、景色のいい場所はないか…と、観光がメインだったのですが、やっぱり各地にちらばる庚申塔(こうしんとう)も探さずにはいられません。

 

庚申塔を探していると、ふだんなら行かないだろうという場所にまで、行ってしまうのが庚申塔探しの楽しい部分でもあります。「志摩町庚申塔」(志摩町教育委員会)を拝読して、今回は”野北 間少路”という地区に行ってみました。

場所:福岡県糸島市志摩野北

地図:Google Maps

上の写真右側にちらっと見えるのが納骨堂。この納骨堂敷地内に、庚申塔が二基祀られていました。「志摩町庚申塔」(志摩町教育委員会)によると…

 

以前道下にあったのを、納骨堂とともに移転した

 

…とあります。たしかに、納骨堂は駐車場が広く整備され、ずっと昔からの納骨堂というわけではなく、新しく後にできた印象を受けます。

上の写真だと、右側の曲がった樹の根元にふたつの庚申塔は祀られています。庚申塔の写真は↓こちら。

写真だと、何が刻まれているのか、ちょっとわかりにくい。でもなんと親切なことに、「志摩町庚申塔」には拓本(たくほん)が掲載されています。

↑拓本左側には、「文化十五年戌寅 庚申塔 仲春吉旦」と刻まれます。右側には、「宝暦八寅 〇庚申塔 二月吉祥日」と刻まれます。

 

それぞれの製造年が文化十五年(1818年)、宝暦八年(1758年)と60年のひらきがあります。それぞれ別の場所にあったものを、一か所にまとめたのでしょうか?それとも、1758年に造られたものに新しく追加する形で1818年に、また造ったのでしょうか?詳しくはわかりません。

 

それにしても、この”野北 間少路”という地区には、他にも5つもの庚申塔が祀られています。糸島市志摩町全体でとらえると、昭和の終わりごろまで庚申塔が造られていたそうで、古いしきたり…というかつながりが大切に守られている地域ということがわかります。

 

現在でも、井田原地区や桜井地区など農村的組織の強い地域において庚申講が存在し、やや形を変えてではあるが庚申待(こうしんまち)がおこなわれている。 志摩町庚申塔」(志摩町教育委員会

 

 庚申塔の残存数や、庚申待がいまも続けられているかなどから、そこの地域性がなんとなくわかってくるとは。糸島市庚申塔さがしで新しい発見がありました。