日々の”楽しい”をみつけるブログ

福岡県在住。九州北部を中心に史跡を巡っています。巡った場所は、各記事に座標値として載せています。座標値をGoogle MapやWEB版地理院地図の検索窓にコピペして検索すると、ピンポイントで場所が表示されます。参考にされてください。

福岡県遠賀郡岡垣町 糠塚(ぬかづか)の庚申塔

九州の街道のひとつである唐津街道を巡って、街道沿いの庚申塔や史跡をボチボチと見つけていっています。今日は遠賀郡 岡垣町にある糠塚(ぬかづか)という地区に、庚申塔が祀られているという情報を得て、行ってみることにしました。

↑上の地形図に、唐津街道を赤線で記入すると↓下の図のようになります。国道495号線から北原というところで二又に分岐し南西へくだる街道は、須賀神社の横を通ります。須賀神社を過ぎて、60mほどさらに南西へくだると、左手に庚申塔が見えてきます。

 

場所: 福岡県遠賀郡岡垣町糠塚

地図:Google マップ

↓逆光で見えにくくてすみません。庚申塔が祀られている場所は「恵比須神社」と書かれたのぼりが立っていて、道路よりも一段高く盛り上がっています。

昔、恵比須様が祀られていた神社跡だったのでしょうか。今では祠のみが祀られています。祠の隣に庚申塔が祀られています。

↓正面に「庚申尊天」と刻まれます。

↓塔にむかって右側に、寛政十二年の銘。西暦1800年です。

干支でいえば、ちょうど「庚申」の年ですね(参照:図解文化財の見方―歴史散歩の手引

 ↓塔に向かって左側には「四月吉日」の銘

柱状(角柱)の下側には、塔のまわりぐるっと庚申講のメンバーの名前が刻まれているようです。

どうも8名の名前が刻まれているようでした。

室町時代から江戸時代の初期にかけて、庚申の結衆または講の人員がそのまま施主になった場合が多いらしい。そしてそのころは人名を塔面の下部に、はっきりと並べているし、台石や裏面にほることはまれで、また施主何名とした中期以降のように、人名を省略することもほとんどなかった。人名をきざむことが、建立目的に大きな意味をもつものとみられる。参照:庚申塔の研究 (1959年),清水長輝著,大日洞発行

 

唐津街道 宿場町の庚申塔 畦町宿(あぜまちしゅく)

畦町宿(あぜまちしゅく)は、福岡県から佐賀県長崎県をはしっている唐津街道の宿場町のひとつです。↓下の図だと黄色の線が唐津街道を表しています。ごらんのように唐津街道は小倉を出発して、若松、芦屋、赤間を経て畦町へと続いています。

先日、この畦町宿(あぜまちしゅく)へ行ってみました。小さな宿場町の跡でしたが、こういう大きな時代の変化を受けていない場所では、庚申塔が残っていることと期待しての訪問でした。

 

↓地形図でみると、畦町はこのような感じです。旧街道に沿って建物が密に建っています。以前、飯塚の内野宿にも行ってみましたが、同じような雰囲気がただよいます。

ありがたいことに、畦町を歩いていると、ところどころに↓こういう町図が掛けられていて、どこにどんな史跡が残っているのかが確認できました。結論からいうと、畦町宿では3つの庚申塔が祀られていました。この看板では、ふたつの庚申塔の位置が確認できました。

ひとつは↓東構口跡のちかくにあるそうです。

 

実際の場所がこちら↓構口(かまえぐち)は、畦町宿では残っていません。それらしき場所を探してみると、山の斜面にコンクリートで固められた階段があります。その階段を上った先の竹やぶのなかに、ぽつんと庚申塔が祀られていました。

場所:福岡県福津市畦町 東構口付近

地図:Google マップ

 

形体では柱状(角柱)の庚申塔に分類されるようです。

庚申塔には「奉庚申」と刻まれています。↓その下側は表面がはがれて崩れていました。

両側面には、何も刻まれていないようです。

 

 

 

形体はちがいます(自然石)が、同じように「奉庚申」と刻まれる庚申塔が西構口ふきんに祀られていました。観地山地蔵堂がある敷地内に祀られています。

場所:福岡県福津市畦町宿 西構口跡付近

地図:Google マップ

↑こちらの庚申塔も、成立年月日などの銘は確認できませんでした。

 

最後の3番目の庚申塔は、こちらの地図(福岡県福津市庚申塔マップ)でどこにあるのか情報収集することができました。畦町宿の西よりにある護念寺というお寺の境内に、3つ目の庚申塔は祀られていました。

場所:福岡県福津市畦町 護念寺境内

地図:Google マップ

↓こちらの庚申塔は、東構口ふきんの庚申塔と同様の、柱状(角柱)です。そして正面に「庚申尊天」と刻まれます。

この庚申塔は、はっきりわかりやすく、「明和四年」…つまり1767年の銘が刻まれます。この年代は、比較的まだ庚申塔が多くつくられた時代にあてはまるようです。

 街道跡などを歩いていて、思いがけず石仏や庚申塔に出会うと、なぜか気持ちが満たされるような感じになります。これがどうしてなのかよくわからなかったのですが、五来重. 石の宗教 (講談社学術文庫) で書かれているように、昔その石仏をつくった人々の心にすこしだけでも共感できるからなのかもしれません。

 

ヨーロッパのとくにカトリック教国では、いたるところに石の十字架とマリア像が立っている。路傍、十字路、三叉路、村の入口と出口、教会の庭と墓地、村人のあつまる広場などである。これらの石製十字架やマリア像が、人々の心を豊かにすることはいうまでもないが、ヨーロッパの田園風景や道路の景貌を魅力あるものにしている。これとおなじことは日本の石地蔵や道祖神石塔、庚申塔馬頭観音如意輪観音石像などにも言える。

 

路傍の石仏、いわゆる「野の仏」は美のために造立されたものではないし、拝む人も見る人も美の鑑賞をしているのではない。それは庶民の心の表現、とくに過ぎた時代の庶民の嘆きの表現として、これに共感するのが「石の宗教」というものである。五来重. 石の宗教 (講談社学術文庫)

宿場町の愛らしい人形たち 唐津街道 福津市 畦町宿(あぜまちしゅく)

福岡県で庚申塔を探していると、昔の街道沿いで、比較的庚申塔が探しやすいことがわかってきました。そこで、長崎街道唐津街道を主として庚申塔の場所を調べてみることにしました。

 

街道には、だいたい人が一日徒歩で移動できる距離ごとに、宿場町が作られているようです。今回は唐津街道畦町宿(あぜまちしゅく:福岡県福津市畦町)に行ってみました。ここで、おもしろいものを見つけました。

場所:福岡県福津市畦町378

地図:Google マップ

 

宿場町の痕跡をたどるのも楽しかったのですが、今回の記事では、そのおもしろいものをご紹介します。宿場町に沿って歩いていると、たくさんの↓このような土人形に出会えます。

各家の玄関先や路傍に飾られていて、はじめて見たときは「なんなんだろう」とぎょっとしましたが、よくよく見てみると、ひとつひとつがとても愛らしい表情をしています。

模しているのは、人であったり、動物であったり、虫であったり…一見、大雑把につくられているようだけど、動物の人形だと毛並み一本一本表現されていて精巧につくられているようです。

なかでも個人的に好きだったのが、↓こちら角が生えた鬼の人形。

この顔のずんぐりとした形が絶妙。髪の毛、足の指一本一本までちゃんと表現されていますね。

畦町宿は、周りを田んぼや山に囲まれた自然の多い場所にあります。町…というか集落は小さくて、人通りも少なく少し寂しい感じがします。しかし、町のあちこちに、こういった人形があると、町を守ってくれているような感じで、寂しさが薄れます。

これらの土人形が売られているところがあったら、ほしいな…と思っていたところ、こんな看板が見つかりました。

残念ながらこの味のある人形の作者は、2015年に亡くなったそうです。広島県府中におられた高延英昭(たかのぶ ひであき)です。

 

表現されたがっているエネルギーが、いっぱい いっぱい あるのだろうなと思います。私が人形を創るのではありません。それらのエネルギーが形をとる手伝いを、私はするだけ、言ってみれば供養なのだろうなと思います。

 

高延は人形を創る原動力について、こういう風に語ったんだそうです。

唐津街道畦町宿保存会のかたが、高延氏の供養のために、街道沿いに人形たちを陳列していったのだそうです。

富貴寺近くの庚申塔 豊後高田市 蕗(ふき)陽平(ひなたびら)

富貴寺(ふきじ)から県道655号線を北東へ、1.5㎞ほど進むと左手に山神社への参道が見えてきます。この参道脇に、今回の庚申塔は祀られていました。google mapでは、山神社がひっかからなかったので、地形図をもとに神社を探してました。小さな神社でも、地形図ではしっかり記載してくれているのでありがたいです。

場所:大分県豊後高田市 田染(たしぶ)蕗(ふき) 陽平(ひなたびら)

地図:Google マップ

国東半島で、文字塔の庚申塔を見ることは珍しいです。「国東半島の庚申塔」小林幸弘(大分合同エディカル)を拝読していると、青面金剛の像が刻まれる多くの庚申塔のなかに、この蕗にある文字塔が紹介されていました。まだ訪れたことのないコウシンさまでもあったので、行ってみることにしました。

塔は自然石。「青面金剛尊塔」の文字の上に、梵字が刻まれていました。胎蔵界 大日如来を示す梵字です。

さらに、塔の下部にはなにかたくさん文字が刻まれています。ここで「国東半島の庚申塔」小林幸弘著(大分合同エディカル)を引用させていただきます。

 

正面下部には施主または願主と思われる「柏木文次良、永松平蔵」のふたりの氏名が読みとれる。

また「青面金剛尊塔」の両側にも造られた年と月日が表されています。1775年に造られたようです。以前、庚申塔の形態がどんなふうに変わってきたのか、全体を把握するために作った表と照らし合わせてみました。

1775年というと、青面金剛の像を主尊として刻む「青面金剛時代」は終わりつつあり、簡略化された文字塔へと推移している時期のようです。

 

また、各時代に庚申塔がどのくらいの割合で造られたかを示す「国東半島の庚申塔」の「国東半島庚申塔造立年表」を見てみました↓

たくさんの庚申塔が立て続けに造られた1600年代末から1700代前半をピークに、徐々に庚申塔の造立は少なくなってきています。ピーク時は1年に5~6個の庚申塔が造られたそうですが、1775年では、1年にだいたい2個の割合です。

 

訪れた庚申塔が、どの時代に造られた庚申塔であるか、このような表を使って俯瞰してみることを続けていきたいと思います。

長安寺の市指定文化財 宝篋印塔(ほうきょういんとう)に調べてみた

先日、大分県豊後高田市長安寺(ちょうあんじ)が紅葉の見ごろだと聞いたので、行ってみました。

 

場所:大分県豊後高田市加礼川635

地図:Google マップ

 

そのとき、境内に「宝篋印塔(ほうきょういんとう)」を見かけました。収蔵庫の脇で、草木に隠れるようにして、その宝篋印塔は祀られていました。そういうわけで、何度か長安寺にはきていたのですが、宝篋印塔の存在は知りませんでした。

長安寺は、昔、山城が築かれていた屋山(ややま)のふもとにある寺院で、その屋山登山の出発点にもあたる場所にあります。(参照:国東半島の西側を一望できる 豊後高田市の屋山を登る 日々の”楽しい”をみつけるブログ


このお寺には「木造太郎天」と「二童子像」を代表とする多くの文化財が収蔵されていますが、今回の参拝時にはじめて木造太郎天を拝観できました。住職さんに拝観のお願いをして、拝観料300円を納め、収蔵庫内を案内していただきます。収蔵庫内は撮影禁止なので、パンフレットの画像を↓…こちらの像は、たしか何かのガイド本でも見た覚えがあります。だいたい1mほどの像高ですが、想像していたよりも、大きい印象をうけました。高い場所に祀られていたからかもしれません。

 

話を宝篋印塔へ戻します。宝篋印塔は何なのか?よくわからないので、「図解文化財の見方―歴史散歩の手引」で調べてみました。

これによると、宝篋印塔は…

宝篋印陀羅尼を納めた塔で、塔身の四方に四仏、または梵字を刻む

…とあります。これだけではよくわからないので、wikipediaでも調べてみると、供養塔としての役割もあると書かれています。だれかを供養する塔のようですが、どなたなのか?長安寺の宝篋印塔を見てみると、このような感じです↓ 

塔身にあたる部分に、「極空蔵菩薩(タラーク)」を表す梵字が刻まれています。

↓さらにその梵字の下に、なにやら「宗仭公」と刻まれています。見慣れない文字です。

「宗仭公」でネットで検索してみても、「宗仭公」とは○○である、というようなドンピシャの解説は見つかりません。でもいろんな記事を参考にしてみると、どうも「宗仭公」は、屋山城主であった吉弘鎮信(よしひろ しげのぶ)のことだということがわかってきました。

 

吉弘鎮信は別の名前として、吉弘宗仭(よしひろ そうじん)と呼ばれていました。吉弘鎮信は大友宗麟の家臣で、1578年に、今でいう宮崎県木城町(きじょうちょう)の耳川で勃発した戦で、戦死したかたなのだそうです。

 

ひとつの文化財でも、少し調べてみるといろんなことがわかってきて、おもしろいですね。

宇佐神宮の勅使街道に残されている庚申塔 百体社境内

大分県宇佐市には、宇佐神宮に通じる「勅使街道」という、宇佐神宮の呉橋へまっすぐに伸びた道が残されています。これは天皇即位や国家異変の際に、天皇の使いである勅使が宇佐神宮へ派遣されたときに通っていた道です。宇佐神宮周囲を地形図で見ると↓

こんな感じですが、この地図に勅使街道を赤線で示すと下の図↓のようになります。

 

この勅使街道沿いに「百体社(ひゃくたいしゃ)」とよばれる神社があります。奈良時代に、南九州の隼人(はやと)という集団を朝廷が討伐するとき、宇佐神宮の神様も参戦したといわれています。この戦争で亡くなった隼人の霊をしずめるための社が百体社なのです。(参照:百体社(ひゃくたいしゃ)・凶首(きょうしゅ)塚古墳 | 日本一の「おんせん県」大分県の観光情報公式サイト)

この百体社境内に庚申塔らしき石造物が祀られています。

その石造物があるのは、↓こちらの鳥居をくぐってすぐ右側。

↓唐破風の笠つきの庚申塔のようですが、主尊にあたる像が見慣れないものです。

長い杖のようなものを、身体の前面で両手にて把持しており、顔には髭をたくわえています。首を右へ傾け、なにか遠くのほうを眺めているようです。長い間、この像はなんなんだろうと疑問におもっていましたが、「国東半島の庚申塔」大分合同エデュカル(小林幸弘)を拝読し、これに似た像が大分県国見町にもあることがわかりました。

 

↓こちらが国見町野田新涯の牛頭社境内にある庚申塔です。

「国東半島の庚申塔」大分合同エデュカル(小林幸弘)のなかで小林は、この庚申塔について以下のように説明されています。

 

丸みを帯びた石の表面に彫られた龕の中に、首を傾けながら両手で杖をついて台座の上に立っている猿田彦の姿が刻出されている。長く伸ばしたあご髭を蓄えているように見える。

 

似たような形態である百体社の老人の姿をした像は、猿田彦大神なのかもしれないということがわかってきました。百体社は勅使街道沿いにある神社。猿田彦大神は道しるべの神様。猿田彦大神を街道沿いに祀り、勅使の旅の安全を祈った…あるいは宇佐神宮への道案内としての道標…と考えると、つながってくるように思えます。

 

百体神社の石造物には↓このように月雲も刻まれています。庚申塔の可能性をにおわせます。

裏側には、何やら文字が刻まれていますが、判別することができませんでした。

猿田彦大神が主尊の庚申塔は文字塔しかみたことがなかったので、これが庚申塔ということに考えがつながりませんでした。猿田彦の像が刻まれる庚申塔もあるんだという発見があった庚申塔でした。

 

国見町 牛頭社の庚申塔。1774年の作。

秋深まる天念寺耶馬で心温まる小さな祭り 鬼会の里祭り2017年

大分県豊後高田市の天念寺(てんねんじ)で、毎年「鬼会の里祭り」が開催されています。2017年は11月19日(日)に開催されました。毎年楽しみにしているお祭りなので、今年も行ってみました。

豊後高田市に住んでいるころは、車を飛ばせば15分程度で行ける距離だったのですが、福岡県へ移ってからは、半日がかりの移動です。「鬼会の里祭り」に行く原動力は、地元の知り合いに会えるということが一番であり、国東半島独特の自然や空気感にふれて気分をリフレッシュするのも目的のひとつです。

 

毎年、「鬼会の里祭り」がいつ開催されるのかわからないので、豊後高田市のホームページをチェックしているのですが、直近にならないとホームページに情報がでないようなので、豊後高田市在住の、知り合いのかたに連絡をとり開催日時の情報を得ています。

 

そこで、だいたいの開催日時がわからないかと思い、毎年の開催日時をさかのぼって調べてみると…

2013年は11月24日(日)…第4日曜日

2014年は11月23日(日)…第4日曜日

2015年は11月22日(日)…第4日曜日

2016年は11月20日(日)…第3日曜日

2017年は11月19日(日)…第3日曜日

…というように、昔は第4日曜日、2016年から第3日曜日に開催されているようです。2018年は11月18日(日)に開催されるかもしれませんね。「鬼会の里祭り」は、仕事を持たれている地元の有志の方々が開催されているようなので、もしかしたら11月くらいになってやっと「よし、この日だったら開催できそうだ」となるから、数か月も前に情報が掲載されないのかもしれません。

 

なにはともあれ、今年(2017年)は第3日曜日の11月19日に、無事開催されました。

 

このお祭りでは、そば、つきたての餅や地元特産品の販売が行なわれています。毎年たのしみにしているのが、↓こちらのイノシシ肉の炭火焼(300円)。

焼きたてを提供してくれていて、焼きたてだったらほんとに柔らかいのです。脂がよくのっているのですが、霜降り牛肉のような後にひく脂っぽさではなく、鶏のもも肉のようなさっぱりした後味です。

 

味付けは塩コショウでシンプル。これに、無料でいただけるカボスをかけると、なんともいい風味です。大分県の地元飯という感じですね。だけど、イノシシ肉は冷えると、急激に硬くなって、独特のくさみがでてくるので早めに食べるのがいいようです。

 

ちなみに、イノシシ肉が焼きあがるのを待っていると、これまた無料で、子どもに綿菓子を二本もくれました。

 

イノシシ肉の炭火焼とともに、もうひとつ楽しみにしているのが、こちら↓の「とろろそば」と「とろろ飯」です。こちらは二つセットで800円。

カメラを持って行くのを忘れて、携帯のカメラで撮ったので、あまりおいしそうに写せなくてすみません。

普段はなかなか食べられない山芋を、この時ばかりはお金に糸目をかけず食べさせてもらいます。昨年は、子どもは山芋を食べられなかったのですが、今年はどんどん箸が進んでいました。

忘れてはならないのが、↓こちら。つきたての餅です。つきたてなので、やわらかいんです。中にはこしあんが入っていて、口の中でさらっと溶けるいい甘さです。1パック6個入りで600円。

↓この写真ように販売所のすぐ隣で、餅が杵と臼でつかれています。テントの下で、人力の餅ちぎり機械で、適度な大きさの餅に切られます。この餅に、こし餡が手作業で包み込まれます。

アンコ入りの餅以外にも、1カップ100円の酢餅も販売されていました。今年は、たくさん食べて酢餅までは行きつかなかったので、酢餅はパス。

 

会場では12時前からカラオケ大会が開催されはじめました。

寒空の下ではあったけど、ほっこり気持ちが温かくなる小さな祭りでした。また来年も行きたいです。