日々の”楽しい”をみつけるブログ

福岡県在住。九州北部を中心に史跡を巡っています。巡った場所は、各記事に座標値として載せています。座標値をGoogle MapやWEB版地理院地図の検索窓にコピペして検索すると、ピンポイントで場所が表示されます。参考にされてください。

庚申塔がたくさん祀られていた神社 飯塚市枝国 宝満宮

場所:福岡県飯塚市枝国 宝満宮

地図:Google マップ

 

飯塚市の宝満宮という神社に庚申塔がないか探しに行ってみました。予想に反してたくさんの庚申塔を見つけることができました。おそらく他地域に祀られているものが集められたと考えられますが、参道にたしか…6基の庚申塔がまつられていました。

 

こちらはそのうちのひとつ↓

特大の庚申塔で自然石に猿田彦大神と刻まれています。「明治廿六年 已一月 良日」と刻まれます。

このなかで見慣れない文字「廿」と「已」という文字がありました。「廿」文字は以前なにかで見た記憶があります。過去の記事を見直してみるとありました。

 

ooitasyuyu.hatenablog.com

 以前にも疑問に思い調べていました。

 

「廿」はこれ一文字で20を表す漢字です。ちなみに「卅」は30、「卌」は40なんだそうです。

 

だからこの庚申塔明治26年に造られた庚申塔ということでしょう。だいぶ新しいものです。

 

次に「已」という文字ですが、これはどういう意味なのか?似たような文字で「己」とか「巳」という文字もあるようです。石塔に刻まれている形は「已」のようですが…

 

ひとまず「已」から調べてみます。これは「い」と読み「やめる」とか「すでに」という意味があるようです(参照)。

 

では「己」は?己 - Wikipediaでは十干の6番目、「つちのと」という読み方をするそうです。でもこれでもしっくりこないので、もうちょっと調べてみました。

 

「巳」だと十二支のひとつで「へび」の意味があるそうです(参照)。明治26年1893年はちょうどヘビ年。だからこれが正解のようです。刻まれる文字は「巳」なのですね。ちょっと風化して「已」に見えるのかもしれません。

 

まとめると、明治26年のヘビ年の一月に造られた庚申塔ということのようです。今回もまたひとつ勉強になりました。

隠れた梅の名所 北九州市若松区 仙凡荘

場所:福岡県北九州市若松区小石1456 仙凡荘

地図:Google マップ


こんな山奥に?という場所にある梅の名所。2018年3月4日では6~7分咲でした。1000本近く梅が植わってるけど訪れる人が少ないようで、ゆっくり梅が楽しめました。車でも仙凡荘まではいくことができますが、離合がかろうじてできるというほど狭い道路が続きます。迫田町から仙凡荘に向かう道路は、はじめガタガタの砂利道でちょっと不安になりますが、しばらく進むと舗装された道路に変わります。

平家とつながりがある白い五輪塔 北九州市安屋 戸明神社

北九州史跡同好会が発行している「北九州の史跡探訪」という史料に五輪塔が紹介されていたので行ってみることにしました。

場所:福岡県北九州市若松区安屋 戸明神社

地図:Google マップ

 

同書物には以下のように紹介されていました。抜粋してみますと…

 

この白塔は逆水の大木戸からここに移したもの。島郷には天野姓多く、一族郎党自決し果てた天野兵内の子孫で、正月は今も一門の霊を供養する伝統を守り続けているという。「北九州の史跡探訪」(P128)

 

…とあります。もともとは逆水の大木戸という場所にあったそうです。逆水という地名は五輪塔が祀られる戸明神社のすぐ近くにあります。でも大木戸とは?この地名は地図上では見つかりません。赤丸で示した部分が戸明神社です↓

 

昔、大木戸という地名があったか、木戸(きど)という言葉が城塞の出入口の意味もあるのでもしかしたらこちらの意味なのかもしれません。

 

少し「北九州の史跡探訪」を調べてみると、戸明神社の東180mほどいった場所に「楽丸城」というお城があったそうです。その楽丸城跡から「約1粁離れた逆水に大木戸の名が残っている」んだそうです。粁は「キロメートル」と呼びます。

 

地図上では残っていないけど、現地にいくと「大木戸」という地名の痕跡がどこかに残っているかもしれません。

 

除籍謄本を超えた家系図の調べ方: 北九州市若松区」と拝見すると”天野兵内茂澄”というかたが楽丸城の城主だったそうです。

 

天野氏は平家方の武将山鹿氏の家臣で、平家滅亡と供に山鹿氏も滅び、同時に天野氏も滅びました。

 

天野氏の供養塔として↓この五輪塔をたてたのでしょうね。

五輪塔は戸明神社 拝殿に向かって左奥に、他の祠2基とともに祀られていました。

 

石質のことはわかりませんが、表面が滑らかな感じの石で作られているようです。なんとなく近くの岩屋海岸の石と似ているような感じがします↓ 海岸の石でつくられた五輪塔なのでしょうか? 

 

↓神社の様子はこんな感じでした。神社前には車一台が停められる広いスペースがあり、ここに車を停めさせてもらいました。

急な階段を上ると…

すぐ隣に保育園がある境内↓

神社前には田畑が広がり、農道は車がやっと離合できるほどの幅です。

 

平家とかかわりのある五輪塔が、この小さな神社に祀られているとは知りませんでした。まだまだ知らない歴史を知るきっかけとなるので、小さな史跡であってもそれを探して詳しく調べていくのはおもしろいですね。

秋月街道 千手宿の庚申塔と猿田彦大神

先日、福岡県嘉麻市の千手(せんず)という場所に珍しい卒塔婆があるという情報を得て、その卒塔婆をさがしに行ってみました。結局、卒塔婆は見つけることができませんでしたが、新しいことを発見できました。この千手(せんず)という地域は昔、秋月街道の宿場町だったということです。これまで福岡県を通る街道は唐津街道長崎街道を巡ったことがありますが、秋月街道はあまり通ったことがありません。

 

今回、秋月街道についても少し目を向けてみることにしました。

 

秋月街道はどこを通っているか?

↑上の図はこちらのサイト「松崎宿縁起」から引用させていただきました。秋月街道の通る位置がわかりやすく示されています。北九州市の小倉からはじまり、長崎街道の田代という宿場町まで伸びる茶色で示された道が秋月街道です。その街道のおおよそ半分ほどに千手宿があったようです。

 

ここからは、秋月街道をゆくと、こちらのサイト「千手宿[秋月街道]-お寺めぐりの友」を参照しながら千手宿について調べてみたいと思います。

 

千手の名前の由来は千手寺(せんじゅじ)があったからだそうで、実は私が探していた卒塔婆はこの千手寺の敷地内に祀られていたことが後にわかりました。 

秋月街道をゆくによると、千手(せんず)宿は↑こんな感じになっていたそう。前記した千手寺は、この地図の東側…標高130mほどの山手にありました。 

 ↑千手寺

 

千手宿の起こり

「秋月街道をゆく」で以下のように紹介されていました。

 

明治初期に編纂された『福岡県地理全誌』を見ると、「旧秋月県管轄七十一の村の一なり。東千手村の支村なりしが慶長七年寅。分て別村とす。同十七年壬子。駅舎を立て、千手新町と呼べり。其後千手村と称す」とあり、千手宿の設立は、母里但馬守が大隈城主となって六年後となる。

 

”秋月県”とは聞きなれない言葉です。秋月は昔、「県」だったのでしょうか。福岡藩 - Wikipediaで調べてみると、明治時代の廃藩置県以来、一時的に秋月藩から秋月県になったようですね。

 

福岡藩支藩として秋月藩があって、その秋月藩が管轄する村のひとつが千手村でした。秋月藩ができたのが1623年。それから1871年明治4年)の廃藩置県秋月藩から秋月県となり、その後、福岡県に編入されました。

 

庚申塔

そんな千手宿でもやはり街道の宿場町なので庚申塔猿田彦大神がありました。

 

場所:福岡県嘉麻市千手(せんず)

地図:Google マップ

 

宿場町の地図でいうと↓千手小学校となりの西楽寺があった場所にこれら三つの庚申塔猿田彦大神が祀られていました。

一番左側の笠付の庚申塔は「謹慎 庚申尊天」

↓真ん中は「猿田彦大神」と「天明四年」…つまり1784年の銘が刻まれます。私は見落としていましたがどうも「林田彦太郎 」という銘も刻まれているようです(参照)。

↓一番右側にも「猿田彦大神」が刻まれます。

↓これら石塔の前の通りは昔のメインストリートだったのでしょう。共同浴場やお菓子屋さん、旅館、飲食店が立ち並んでいたそうです。

 

 

↓こちらは千手寺へと向かう参道で見つけた神様。

石垣の上に祠が祀られているので、小川の中に四本の竹と小さく切った竹で櫓を組み、そこにお供え物をしていました。

秋月街道の宿場町 千手(せんず)宿の恵比須様

場所:福岡県嘉麻市千手

地図:Google マップ

 

嘉麻市の千手(せんず)という場所に宝篋印塔があるとの情報を得て、探しにいってみました。そのとき、たまたま道ばたにこの像↓があるのを見つけることができました。

はじめは、おじいさんとおばあさんが刻まれている双体道祖神と思ったのですが、ツイッターで親切にも、どうも違うようであるとの情報をいただきました。 

 

 

拡大して確認してみると、確かに向かって右側の像には、右手になにか細長いものが握られ、左脇には平たく丸いものが抱えられているのがわかります。また頭には烏帽子のようなものもかぶられています。

よくよく調べてみると、こちらのサイト(千手宿[秋月街道]-お寺めぐりの友)に恵比須像として紹介されていました。

 

恵比寿像の安置されている祠は街道右手である。その対面には溝口商店がある。店先に「こうじや」の表示。 歴史ある商家のようである。

 

さすがに詳しいかたが見ると、その像が何であるかが推察できるのですね。一枚目の写真の奥に「溝口商店」の文字が見えますが、そこが椛屋さんだったようです。もしかしたらその商店主が、商売繁盛のためにこの恵比須様を祀ったのかもしれません。

 

それにしても、向かって左側の像はなんなのか?定番で考えると大黒様と予想はされますが、シンボルとなる米俵や小槌が確認できません。腹のまえで手を組みまるで座禅をしているような印象の像です。

 

昔、この千手という場所は秋月街道の宿場町だったそうです。「秋月街道をゆく」という書籍にその詳細が紹介されているようで、さっそく注文をしてみました。書籍が届いたら追って調べてみたいと思います。

修正鬼会の鈴鬼 どうして鈴を持っているのか?

大分県国東半島で行なわれる修正鬼会(しゅじょうおにえ)。その鬼会で登場する鬼の特徴を整理するとき、天念寺のある西側と、成仏寺・岩戸寺がある東側とに分ける必要があります。

さらに鬼は鬼でもこれも大きく分けて二つの名前で呼ばれるそうです。鈴鬼と荒鬼の二つです。もっと細かく言うと荒鬼もさらに三つの鬼(災払鬼、荒鬼、鎮鬼)に分類されるようです。ちょっと図で整理してみたいと思います。

それぞれの鬼を写真で合わせてみると以下のようになります。

 

鈴鬼(すずおに)↓

 

災払鬼(さやはらいおに:赤鬼)↓

 

荒鬼(あらおに:黒鬼)↓

 

もうひとりの鬼である鎮鬼(しずめおに)は、私は実際に見たことがなく他サイトの説明によると「幾何学模様が特徴的な黒い面(参照)」なのだそう。国東半島の東側…成仏寺と岩戸寺の修正鬼会で見ることができます。

 

東西でその鬼の外見がだいぶ違うようです。上の写真でご紹介した鬼は西側の天念寺での鬼です。東側の成仏寺、岩戸寺の鬼は天念寺のようにはっきりと赤・黒とわかる衣装を身に着けていません。共通しているのは全身を縄で縛られていることでしょうか。

 

鈴鬼の概要

鈴鬼、災払鬼、荒鬼、鎮鬼の4種の鬼のうち今回は鈴鬼について調べてみました。外見からは鬼らしくないのに、どうして鬼と呼ばれるのか?興味を持ったからです。

↓こちらの表からもわかる通り、どの寺院の修正鬼会でも鈴鬼は登場します。それもそのはず、鈴鬼はほかの鬼たちを呼ぶ役割をもっているからです。

↑この表の上から下へ向かって登場する鬼たちの順番となっています。鈴鬼が登場し、鬼マネキという法舞が行なわれなければ他の鬼たちは登場できないことになっているそうです(参照:修正鬼会に現れる鈴鬼 小山喜美子)。

 

天念寺の修正鬼会のなかで、たしか「鈴鬼はご先祖様の霊である」ことを僧侶が説明してくれていたように記憶しています。私はこれから始まる荒鬼や災払鬼の登場のほうに気持ちが囚われていて熱心に僧侶の説明を聞いていませんでした。そんなうろ覚え状態なので、僧侶の説明を裏付けるような情報はないかしらべてみました。しかし、ネット上ではそのような情報は載っいません。もっと真剣に聞いてればよかった…もしかしたらどこか古い書物には載っているのかもしれません。

 

鈴鬼の法舞 どんな舞をするのか?

修正鬼会に現れる鈴鬼 小山喜美子によると、鈴鬼の法舞は”九手秘伝の作法”があり、最後に”鬼マネキ”が行なわれるのだそう。

 

10種の鈴鬼の舞については『国東半島の修正鬼会』「天念寺」の項に説明があるといいます。

 

一、ミヤワセ、テトンボ

二、ヒドコマネキ、テトンボ

三、ミアワセ、テトンボ

四、ハシラヨセ、テトンボ

五、オガミマネキ、テトンボ

六、コンゴウレイカケ、テトンボ

七、ウチワカケ、テトンボ

八、ウシロムキ、マエムキ、テトンボ

九、ケカヤシ、テトンボ

十、鬼マネキ(テトンボナシ)

 

実際、鈴鬼の舞を見てみるとその所作は複雑で、覚えるのがとても大変そうに見えます。 

実際、鬼役の中で動作が一番難しいのが鈴鬼で、僧侶のなかでも鬼会の流れに詳しい長老が勤める役なんだそう。逆に荒鬼はダイナミックな動きが必要とされ、若い僧侶が勤める役ということです。

 

鈴鬼の別名

『国東半島の修正鬼会』「天念寺」の項には、男の鈴鬼を”若宮”女の鈴鬼を”若姫”とも呼ぶと記されているそうです。

 

どうして鈴鬼は鈴を持っているのか?

 結論から言うと、本来目に見えない鬼の存在を示すのに用いられるのが鈴ということです(修正鬼会に現れる鈴鬼 小山喜美子)。同論文では、全国の事例をあげてわかりやすく説明してくれています。そのひとつが兵庫県書写山円教寺円教寺では修正会にて暗闇のなかで鬼が踊っているという。その際、赤鬼が鈴を手にし絶えずその鈴を振り続けている。

 

その他、兵庫県姫路市の随願寺、兵庫県神崎郡福崎町の神積寺などでも鈴を持つ鬼の舞があるということで、暗闇の中で鈴をならしその存在を示す鬼の例が挙げられています。

 

これらの例で挙げられた鬼は暗闇で鈴を鳴らし舞う一方、国東半島の修正鬼会の鈴鬼はお堂のなかから一歩も外には出ません。

 

・村に出て人前にその姿をさらさないという点

・鈴の音のみで自身の存在をアピールするという点

 

この二点で、どの鬼にも共通点があると小山氏は考えています。目に見えないものの存在…つまり神仏…を示すものが鈴ということです。

鬼会で使われるたったひとつの道具を調べてみても、いろんなことがわかってくるのでさらに鬼会に対しての興味がわいてきます。

国東半島の修正鬼会(しゅじょうおにえ) 各寺院で出てくる鬼に違いがある

修正鬼会(しゅじょうおにえ)はいまでは、大分県豊後高田市の天念寺、東国東郡国東町の成仏寺、岩戸寺の三か所のみで行なわれています。江戸時代までは、なんと天台宗二十八本寺すべてで行なわれていたそうです。

 

天念寺では、修正鬼会は旧暦の1月7日に行なわれており、2018年では2月22日に開催されました。 

天念寺修正鬼会の鬼役には赤鬼である「災払鬼(さいばらいおに)」、黒鬼である「荒鬼(あらおに)」そして男女の面をつけた「鈴鬼」があります。

 

 

さらに調べてみると、こちらの論文では「鎮鬼」というものがあると書かれています。ちょっと整理してみると、修正鬼会の鬼には4種あるということがわかります。

 

・災払鬼(さいばらいおに)

・荒鬼

・鈴鬼(すずおに)

・鎮鬼(しずめおに)

 

では天念寺の鎮鬼はどうなったのでしょうか?ほかの成仏寺と岩戸寺では4種の鬼がいるのでしょうか?各寺院の修正鬼会で出てくる鬼を調べてみました。

 

成仏寺では鈴鬼、災払鬼、荒鬼、鎮鬼の四種がおられるようです(参照)。一方、岩戸寺では鈴鬼、災払鬼と鎮鬼の二種がおられます(参照)。各寺院によって出てくる鬼と、そうでない鬼がいるようです。表にまとめるとこんな感じです↓

 

どうしてこういう違いがでたのでしょうか?そのひとつのヒントになるエピソードが国東半島物語: 小さな旅に紹介されていました。

 

昔、ある僧が荒鬼になり、鬼走りをするとまるで鬼の精が乗り移ったかのように激しく暴れまわった。ついには結界石(鬼止め石)を越えて村境まで走り狂ったはてに死んでしまった。そのとき付けていた鬼面は、はるかに伊美の権現﨑まで飛んで岩にくらいついた。だから岩戸寺の荒鬼はほんらい三体あるべきが、災払鬼と鎮鬼の二体だけになったといわれている。(P167-168)

 

ここでは岩戸寺の荒鬼がどうしていないのかが語られています。どの寺院の修正鬼会でも共通して言えることが、災払鬼、荒鬼を招く鬼が↓下の写真に紹介している鈴鬼ということです。

↑男女の面をつけた鈴鬼

 

どの寺院でも災払鬼、荒鬼、鎮鬼を招くために鈴鬼が、9種あるいは10種の大鬼を招くための法舞を舞うそうです(参照:https://ci.nii.ac.jp/els/contents110004035822.pdf?id=ART0006294398)。成仏寺では9種、天念寺では10種の法舞とどうも天念寺ではひとつ法舞が多いようです。

 

四種それぞれの鬼がどんな役割を持っているのか?天念寺特有の鈴鬼はどんな鬼なのか?疑問がまたでてきたので、追って調べてみようと思います。