日々の”楽しい”をみつけるブログ

福岡県在住。九州北部を中心に史跡を巡っています。巡った場所は、各記事に座標値として載せています。座標値をGoogle MapやWEB版地理院地図の検索窓にコピペして検索すると、ピンポイントで場所が表示されます。参考にされてください。

合馬 麻生堂へと続く参道脇に祀られる猿田彦大神 小倉南区合馬

場所:福岡県北九州市小倉南区合馬

座標値:33.806191,130.815941

今回の猿田彦大神庚申塔は、たまたま見つけました。前回の記事(田代の山奥に猿田彦大神がどうして祀られる? 北九州市八幡東区田代 稗田神社)でご紹介した稗田神社を探しているとき道にまよい、合馬(おうま)のこの場所で車をUターンさせようとしました。

 

その際に、猿田彦大神と刻まれている庚申塔を見つけることができました。付近には麻生公民館という看板がかかげられた公民館がありました。おそらく麻生(あそう)という名の地区なのでしょう。

刻まれている文字はだいぶ風化がすすみ、とても判読しにくい状態でした。

文字は正面にのみ刻まれているようで、側面には文字らしきものは確認できませんでした。

自宅に帰ってから撮った写真を加工し、表面に刻まれた文字を読み取ってみました↓

おそらく…ではあるけれども、以下のような文字がかろうじて確認できました↓

天保七年 七月吉日」。天保七年ということは、西暦1836年、干支は丙申(ひのえさる)です。

 

今回の庚申塔は、合馬の奥まった場所にある麻生と呼ばれる小さな集落の入口に祀られていました。集落に害悪が入ってこないよう、守り神としてこの庚申塔は祀られたのでしょうか。

またすぐ近くに公民館があります。昔は、この場所で庚申の日に集落のかたがたが集まって、寄り合いを行なっていたのでしょうか。

田代の山奥に猿田彦大神がどうして祀られる? 北九州市八幡東区田代 稗田神社

福岡県の北九州市にも奥深い山々に囲まれた自然いっぱいの地区がいくつかあります。田代(たしろ)地区も、そのような山間部の地区に含まれます。

 

田代のすぐ隣…東側には、「合馬(おうま)のタケノコ」で有名な合馬地区があります。

今回、訪問した史跡は田代地区にある稗田神社。おそらく「ひえたじんじゃ」と読むのでしょう。その稗田神社に祀られる庚申塔を探しにいきました。

 

庚申塔の存在を知ったのは、こちらのサイト(八幡東区河内地区の史跡等)です。このサイトでは”境内の猿田彦神は、文化2年(1805年)の製作銘が彫られています”と紹介されています。地図に神社の場所を明記してくれているので、おおよその場所を予想して地形図を見ながら歩いていくことにしました。

 

稗田神社の場所

稗田神社がある場所は、北九州市八幡東区北九州市小倉南区との境に近い場所でした。↓下の地図の赤丸で示した場所です。 

 現在は閉鎖してしまった、「北九州市立たしろ少年自然の家」のすぐ裏手にある山のようです。下の座標値は実際に足を運んで、稗田神社があった場所の座標値です。 

 

場所:福岡県北九州市八幡東区大字田代

座標値:33.8058173,130.8039651

 

この稗田神社に行くにはどこをどう歩いて行ったらよいのでしょうか?地形図では神社の北東部分に、県道61号線からの参道入口があるようです↓

実際に参道入口と思われる場所に行ってみました。

 

参道入口の座標値:33.807354,130.806264

 

ちょうど県道61号線の峠にあたる場所でした。車道から↓写真のような簡易的な階段が確認できました。

参道にはクモの巣がたくさんかかっており、あまり人が来ていないことがわかりました。↓参道のいりぐち付近はだいぶ荒れていました。荒れてはいましたが、とても歩けないという状態ではありませんでした。

上り坂が終わり尾根部分に入った参道↓ 道は歩きやすい状態ではありましたが、やぶ蚊やコバエがたくさん顔に寄ってきて、とても不快でした。少し立ち止まると大量の蚊とハエが寄ってきます。

顔に寄ってくる虫たちを手で払いながら、立ち止まらず歩き続けます。

 

途中から、杉林に変わります↓ 写真では気持ちのいい場所のように見えますが、歩いているときは常時、寄ってくる大量の虫たちに悩まされます。

↓途中で鉄塔の下に出ます。

↓地形図でいえば矢印のあたりです。稗田神社と鉄塔との距離は、わずか70mほど。鉄塔からはすぐに稗田神社の境内が見えてきました。

稗田神社には拝殿も本殿もなく、祠が三基、大小の石塔が四基、灯篭が二基祀られるのみでした。

↓めざす猿田彦大神庚申塔は、石塔のなかでも一番大きいものでした。ほぼ中央部に祀られている石塔が庚申塔でした。ちょうど真ん中から縦に二つに割れてしまったように見えます。

 庚申塔には↓「猿田彦太神」、その隣に「文化二 月日」と刻まれます。

文化二年は西暦では 1805年でした。

 

稗田神社にどうして猿田彦大神が祀られる?

しかし、どうしてこんな山奥にある稗田神社に猿田彦大神が祀られているのでしょうか?稗田神社がある場所は、どうも古い街道沿いでもなんでもなさそうです。集落の出入口にある神社でもなさそうだし…。猿田彦大神が刻まれる庚申塔が祀られる場所としては不自然な感じがします。

 

そうすると稗田神社自体に猿田彦大神を祀る、何か目的があったのかも…と考えてもいいかもしれません。

 

八幡東区河内地区の史跡等のサイトでは稗田神社について以下のように紹介されています。

 

祭神 保食神 菅原神 大山津見神 大日霊命
由緒 不詳

 

伝承では、五穀豊穣を願って田川郡上野村より勧請したと云われています。

 

 祭神に保食神(うけもちのかみ)がおられます。この保食神は食物の神さまで、五穀をつかさどる神なのだそう(参照)。五穀をつかさどる神さまつながりで、お稲荷さまと関係があるようです。でも、どうも保食神猿田彦大神は関係があまりなさそうです。

 

では再度、稗田と猿田彦大神がなにか関係があるのか?調べてみました。

 

稗田神社と猿田彦大神とのつながりが、ずいぶんとわかりにくいのですが、以下のようになんとかつなげて考えてみました。日本書紀のような古書の解釈はわたしには難解なので、おおよその推察となります。

 

稗田神社はもともと東京都大田区蒲田にある神社で(参照)、祭神として天照大神がおられるようです。一方、アマノウズメという神さまが、天照大神を先導する神様として猿田彦大神の名前を紹介したのだそう(参照)。

 

アメノウズメはサルタヒコの名を明かしたことからその名を負って仕えることになり、猿女君の祖神となった。一説にはサルタヒコの妻となったとされる。

 

…とあります。稗田神社と猿田彦大神とのつながりをまとめてみると…

稗田神社→天照大神アマノウズメ猿田彦大神

…となるようです。なんだかちょっとつながりが苦しい気がしますが、こうやってつなげると稗田神社と猿田彦がなんとかつながりました。

久留米市で見つけた初めての庚申塔 北野町大城

久留米市の今宮八幡宮を訪ねたときに、たまたま路傍で庚申塔を見つけました。

 

場所:福岡県久留米市北野町大城

座標値:33.3323633,130.6138313

T字路の一角…垣根の間に祀られていました。「猿田彦太神」と刻まれています。

庚申塔を横から見ると、大分県玖珠郡でよく見かける腰が曲がったように見える形状をしていました。庚申塔に向かって左側面に文字が刻まれています↓

だいぶ文字は風化していますが、写真に撮った後で拡大するとなんとか内容を確認することができました↓

「寛政十二年 九月吉日 願主中」と刻まれていると思われます。寛政十二年は、ちょうど庚申(かのえさる)の年。西暦1800年でした(参照)。

芦屋海岸の夕景 福岡県遠賀郡芦屋町

船が通った後の波模様がとても美しいです。その波模様を撮るために、漁船が行き交う海岸へ行ってみました。

 

↑上の写真にうつっている船の跡では、思い描いていたような写真は撮れませんでした。しかし、曲線を描きながらゆっくり港へ入っている船の姿が夕日に映え、とても印象深い風景でした。

 

船が通った後の波模様のことを何と呼ぶのか気になったので調べてみると、船跡(ふなあと)と呼ぶそうです(参照)。

 

自分のイメージとよく合った写真が撮れると、写真のタイトルが自然と思いつくのだそうですが、今回は何とはなしに撮った写真なので、いいタイトルが思いつきませんでした。そのため、そのままのタイトルの「芦屋海岸の夕景」としました。

どうして今宮八幡宮にとぐろに巻かれた弁財天が祀られているのか? 久留米市北野町

福岡県の久留米市を訪れる前、こちらのサイト(大城南エリア;PDF)を拝見し、今宮八幡宮という神社に珍しい石仏があるとの情報を得ることができました。

↑PDFの説明によると、今宮八幡宮には菅原道真公の一族が祀られており、境内の一角に蛇のとぐろに巻かれている弁財天さまがあるいいます。

 

その弁財天さまがこちら↓

場所:福岡県久留米市北野町大城

座標値:33.332353,130.613325

 

とても奇妙な形態をしています。一見したところ”宇賀神(うがじん)”なのでは?と思いました。宇賀神は、身体が蛇で頭が人の形をしている神さまです。

 

そこで宿なし百神 (東京美術選書12 川口謙二著)のP27、宇賀神という項を参照してみました。これによると、宇賀神と弁財天はまったくの別物ではないようです。

 

宇賀神は白蛇を神として祭ったものだともいわれ、七福神のひとつ弁財天の別称であるともいわれる

さらに宇賀神の解説は続きます。

 

宇賀神の”宇”は天を意味し、虚空蔵菩薩・父・金剛界とされるそうです。また宇賀神の”賀”は地を意味し、地蔵菩薩・母・胎蔵界とされるそうです。そして宇賀神の”神”は観世音菩薩として、この三つの”宇”と”賀”と”神”を総じて弁財天であると、日蓮宗では説いているとのことです。

 

宇賀神はどんな神さまであるのか、数々の説があるようですが、それぞれの説は弁財天と結びつき、弁財天と同じ神さまであったり、弁財天と夫婦神としている説もあるそうです。

 

でも、どうしてこの今宮八幡宮に弁財天さまが祀られているのでしょう?再度、大城南エリア;PDFを読んでみました。

 

今宮八幡宮巨瀬川のすぐそばに祀られるお宮ですが、お宮から直接、この川へ下る階段があります。

この場所から、対岸にある善導寺渡し船がでていたそうです。ここは豊臣秀吉も使ったといわれる渡し場なので、この渡し場跡を「太閤渡し」と呼ぶそうです。

 

弁財天さまはもともとインドの河の神さまなので(参照)、運航の安全を願って、弁財天さまが祀られてのではないかと考えられます。

また、小さな神社についての興味深い発見ができました。

どうして浮羽稲荷にはこんなにたくさんの鳥居が祀られているの? 福岡県うきは市

場所:福岡県うきは市浮羽町流川

座標値:33.323434,130.791347

ずっと以前に、”赤い鳥居がずらっと並んでいて、その先に田園風景がひろがる”この浮羽稲荷神社の写真をどこかで見て、一度いってみたいと思っていました。

 

どうしてこんなにたくさんの赤い鳥居が祀られているのでしょう?改めて考えてみると、お稲荷さまが祀られている神社には赤い鳥居がたくさんあります。

 

そもそも、どうして稲荷神社には鳥居がたくさんあるの?

伏見稲荷大社のホームページでその理由が書かれていました。

 

願い事が「通る」或いは「通った」御礼の意味から、鳥居を奉納する習慣が江戸時代以降に広がった結果です。現在は約1万基の鳥居がお山の参道全体に並んで立っています。

 

鳥居は神社を信奉するかたがたから、ひとつひとつ奉納されていたのですね。そういえば、神社には寄進者の名前と寄進額が刻まれた柵(玉垣)が、周囲をぐるっと囲っているのをよく目にします。稲荷神社の場合は、それが鳥居なのでしょう。

 

たくさんある鳥居はどうして朱色なのか?

稲荷神社の鳥居はどうして赤色なのか…の理由も同サイト(伏見稲荷大社HP)で紹介されていました。

 

・魔力に対抗する色

稲荷大神様のお力の豊穣を表す色

・昔から木材の防腐剤として使われてきた水銀(=丹)が朱色

 

…などいくつかの理由があるようです。

 

どうして”うきは市”に稲荷神社?

浮羽稲荷神社の案内板にご祭神の紹介がなされていました。それによると…

 

伏見稲荷大社 稲倉魂(うがみたま)の神

②京都松尾大社 大山咋(おおやまくい)の神

太宰府天満宮 菅原の神

 

…となっています。①稲倉魂神と②大山咋神は、調べてみるとどうも治水や農業に関わる神様のようです。

 

稲倉魂(うがみたま)の「ウカ」は穀物を表すそうです(参照)。そして大山咋(おおやまくい)の「くい」は杭のことで、大山に杭を打つ神、つまりは山の地主神であり、また、農耕(治水)を司る神なのだそう(参照)。

 

福岡県うきは市はブドウ、イチゴ、ナシ、カキ、モモなどの果物の名産地として知られています。調べてみると果物だけでなく、米はもちろん麦、花き、野菜などの栽培も盛んなのだそうです(参照)。

 

実際に今の時期(9月)うきは市を車で走ってみると、たくさんのブドウが実っており、あちこちに「これでもか」というくらい「ぶどう直売所」「ぶどう狩り」の看板を目にすることができました。

 

浮羽稲荷神社は山のなだらかな傾斜地に祀られていて、その周囲も果樹園となっています。航空写真で見てみるとこんな感じです。

おそらく稲をはじめとする農産物の栽培が盛んな土地のために、このような立派な稲荷神社も建てられたものと考えられます。そして農業を生業とされている方々からの奉納により、この場所にはたくさんの鳥居が祀られていると予想されます。

浮羽稲荷神社へは雨の降る日の訪問でしたが、神社からの展望は格別でした。

残照

場所:福岡県遠賀郡芦屋町山鹿

空には黒い雲がたちこめ、夕日が雲の切れ目からわずかに見えるのみでした。綺麗な夕焼けは諦めるしかないか…と帰ろうとしました。ふと夕日から目を離し、夕日とは反対の空を見ると、もくもくと立ち上る雲に残照が見えました。