宇佐神宮の歴史を調べていると、隼人(はやと)という名前が聞かれます。例えば、毎年10月10日から、和間海岸で開催される放生会(ほうじょうえ)と呼ばれる祭祀儀礼。これは隼人の霊を慰めるために蜷貝を海に放って供養すると言われています。
また、宇佐にある凶首塚古墳(きょうしゅづかこふん)。なんだかものものしい感じの名前ですが…これも隼人の首をおさめた塚ということです。
そこで隼人とよばれる人はどんなひとで、宇佐神宮と隼人との関係はどんなだったのか調べてみました。
隼人は、ある特定の個人名をさすのかと思っていましたが、どうもそうではないようです。
南九州は、大和朝廷が律令制を確立する8世紀後半までの間、隼人(はやと)と呼ばれる人々がいくつかのクニを形成していた地域でした。
大和朝廷は中国の唐にならって律令国家の建設を進めますが、東北の蝦夷(えみし)と南九州の隼人(はやと)は、その中に組み込まれることに強く抵抗しました。(神仏習合 │ 八幡総本宮 宇佐神宮)
隼人とは、ある民族の名前を指すのですね。
養老4年( 720年)隼人が反乱を起こすと、大和朝廷はそれを鎮定するため、一万人の兵隊を南九州に送ります。宇佐の人々も八幡神を神輿(みこし)に乗せ、鎮定に赴(おもむ)き、3ヵ年にわたって抵抗する隼人を平定して、同7年( 723年)に帰還したと言われます。
そのとき、100人もの隼人の首を宇佐へ持ち帰り、宇佐神宮より西約1kmの所に葬って凶首塚を建てました。(神仏習合 │ 八幡総本宮 宇佐神宮)
こちら(↓)が、その隼人の首をおさめたといわれる凶首塚です。
場所はこちら↓ 宇佐神宮の北西に赤丸で示してます。宇佐神宮から一直線に道がのびてますが、これが勅使道で天皇からの使いが宇佐神宮に来る際、通った道といわれています。
凶首塚(きょうしゅづか)古墳ちかくの案内板にはこんなことが書かれています↓
古墳は6世紀末…つまり西暦500年末につくられたものであり、隼人を宇佐の神軍が討伐したといわれる720年とずれていて、伝説と実際の遺跡成立とが整合しないようですね。
この凶首塚古墳からさらに西にすすむと化粧井戸という史跡があります。
こちらが化粧井戸(↓)。案内版の内容をかいつまんで記すと以下のようになります。
福岡県吉富町にある「古表神社」、そして、中津市伊藤田にある「古要神社」の御神体であるくぐつ人形(木造の人形)を洗うための井戸
古表神社と古要神社のくぐつ人形は隼人征伐に参加した
隼人たちはこのくぐつにみとれている間に伐たれた
化粧井戸はくぐつと呼ばれる人形を洗った場所なのですね。「くぐつ」は「傀儡子」という字を書きます。くぐつは木の人形…あるいは、この人形をあやつる部族のことを指すそうです。上記のように「くぐつに見とれている間に伐たれた」というのは、人形をあやつっている姿に見とれ、その間に殺されたのでしょうね。
もと宇佐神宮の宮司さんから聞いたのですが、今では祭りが行われる際にのみ、水を入れるそうです。
↓こちらが化粧井戸の場所です。凶首塚古墳からは西へ160mほどの場所にあります。赤丸で示しています。
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宇佐神宮に関する神話は多く、そして宇佐神宮とかかわる神社も国東半島、中津市など多岐にわたり、ぶつりぶつりと途切れた情報でしかとらえられていません。
少しずつでも、これらをつなげていきたいものです。
凶首塚からみえる御許山(おもとさん)。大元神社が山頂にあり聖域とされ、いまでも立ち入り禁止の区域もあります↓
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