今では石清水八幡など全国の八幡社で行われている放生会(ほうじょうえ)。その発祥の地は宇佐ですが、宇佐の放生会が行なわれるようになった理由はどんなものだったのでしょう。
それは、九州南部にいた民族である隼人(はやと)のたたりを鎮めるためなのですが、そもそも隼人になにがあったのでしょうか?
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隼人は九州南部の大隅(おおすみ)、日向(ひゅうが)にいた民族です。この隼人が反乱を起こし、大隅の国司である陽侯史麻呂(やこ の まろ)を殺したことが端を発します。
奈良の朝廷が、大伴旅人(おおともたびと)を将軍として軍を率い、隼人を攻めたけれども、隼人を鎮圧することができませんでした。
そこで奈良の朝廷は、宇佐八幡に「隼人を鎮圧してください」と祈願しました。八幡は以下のような人たちを集め、神軍としました。
・豊前の国司 「うぬのおひと」
・八幡宮から派遣された 「すぐりはずめ」
・僧侶集団のひとり「法蓮」
これらの人々が率いる神軍は、中津市の現、薦神社にある三角池(みすみいけ)の薦枕(こもまくら)をご神体としました。そして大隈へ隼人の征討にいき勝利をおさめました。
兵士により隼人らの首が宇佐に持ち帰られ、松隈(まつくま)という場所に埋められたといいます。この松隈という場所が、いまでは凶首塚古墳として残っています。
また、この凶首塚の近くに百体神社(ひゃくたいじんじゃ)を造り、隼人の霊を慰めたといわれます。
しかし、その後農作物に貝虫(貝虫 - Google 検索)がつき、凶作がつづいたそうです。これは隼人のたたりだろう…たとえ朝敵でも神が人を殺したことはよくないとして、1年に1度、ニナガイを海に放して隼人の霊を慰めるようになりました。
これが放生会の起こりといわれています。
2015年は10月10日から10月12日までの期間で行われていました。
初日の10日には、八幡大神が神輿に乗って、宇佐神宮から和間の浜に建てられた浮殿に神幸し、最終日の12日に宇佐神宮へ戻ります。
宇佐神宮から和間海岸まで、約7㎞弱の道のりを神輿をかついで移動するんですね。この祭りいちど実際にみてみたいです。黄金に色づいた田園のなかを神輿がすすんでいく姿は、実際みてみるとどんな感じなんでしょうね。