日々の”楽しい”をみつけるブログ

写真と登山好きのku-(くー)といいます。日々の生活に楽しみをみつけて、紡いでいこうとするブログです。

豊臣秀吉の兵士たちが喉をうるおした場所 北九州市若松にある”太閤水”

住宅街のなかに、こじんまりとその史跡はあります。豊臣秀吉に関係のある給水所。”太閤水(たいこうみず)”と呼ばれる場所が、北九州市若松区にあります。

 

佐賀県北部、唐津市西部、東松浦半島西部をふくんだ地域のことを肥前(ひぜん)と呼びます。この肥前(ひぜん)に、名護屋城という豊臣秀吉により築かれた城があります。

豊臣秀吉が朝鮮へ兵を送るときに、この名護屋城を一時的に築城したそうです。大阪から佐賀県名護屋城にいたる道すがら、秀吉は塚や給水所を点々と作っていきました。

豊臣秀吉は大阪から佐賀県にある名護屋城まで兵を移動させる前に、事前に道をつくり、塚を築き、水や食料を確保してから、出発したといわれています。

 

九州北部でのルートは洞海湾を通り、江川を通って芦屋にでるルートを選んだのだそうです。航空写真で確認してみても、江川のそばに”太閤水”はあります。

今では、住宅に埋もれるように太閤水はあります。このあたりは小敷と呼ばれる地域ですが、420年も昔、付近に住んでいた人たちに命じて、秀吉が井戸を掘らせたのだそうです。

 

場所:福岡県北九州市若松区小敷751

現在地から若松区の”太閤水”:Google マップ

 

秀吉の時代には、↑上の写真の江川は川幅が広く、そして水深も深かったと想像されます。そんな江川に兵を乗せた軍船が行軍する風景は圧巻だったかもしれません。そして、兵士たちはここ小敷の太閤水で休憩をとり、のどを潤したのでしょう。

今でも太閤水は綺麗に保存されていますね。

 

まとめ

史跡を訪ねあるくのは、その時代のことをいろいろ想像できる楽しみがあります。この太閤水周囲は、ごくごく普通の住宅街です。でも太閤水にまつわる話を知ると、ごくごく普通の住宅街も、ちょっと違った雰囲気がただよう特別な住宅街に変化します。

広告を非表示にする