長崎街道の宿場町、内野宿(うちのしゅく)。内野宿のなかで、御茶屋跡というのが、内野の中心部から東側500mほどのところにあります。↓白色で囲んだ部分が、内野の宿場町だったところ。いわば繁華街。現在では、こじんまりとした集落となっています。
内野の集落中心部…から、東側へ歩いていくと、JR筑豊本線をまたいで、田畑のなかを進むと御茶屋跡があるんだそうです。
「…だそうです」というのは、実際にはここまでは行ったことがないんです。いずれ行ってみたいのですが、今回は、この御茶屋について調べてみようと思ったわけです。
↓この「太宰府天満宮 米山越道」の石塔から、東に歩いていきます。
宿場町にある「御茶屋」というのは豪華な旅館のこと
↓下の割図をみてみると、御茶屋というのは、やけに大きな敷地をもっているな…という第一印象です。御茶屋といっても、たぶん、現在でいう喫茶店のような場所じゃないんだな…となんとなく感じます。では、御茶屋とはどんな場所だったの?
「内野の大いちょう」から、さらに町からは外れた場所に、御茶屋はあった
「長崎街道(大里・小倉と筑前六宿内宿通り底井野往還)」によると、御茶屋というのは、大名など位(くらい)の高い人たちが泊まるための宿屋さんだったようです。
一方、大名のお供である足軽・槍持・籠をかつぐ駕籠(かご)かきなどは、普通の宿…旅籠(はたご)に泊まっていました。
昔は、大名が泊まる場所は、「本陣(ほんじん)」と呼んでたそうです。でもこの長崎街道では、本陣とは呼ばないで、お茶屋と呼ばれていました。
内野の御茶屋は↓下のような詳細な図面が残されているそうです。なんて多くの部屋があって、大きい建物なんでしょう!
内野御茶屋絵図(安田家久家 所蔵)「長崎街道 (大里・小倉と筑前六宿内宿通り底井野往還) 」より
ずいぶん豪華な旅館という感じですね。googleのストリートビューで、この御茶屋跡を見てみると、こんな感じです↓
御茶屋跡は、手入れされた草原となっています。
内野宿をはじめとして、この長崎街道を少しずつ周っていますが、ちょっとわかってきたことがあります ↓このような「猿田彦大神」と刻まれた石塔が、街道沿いにたくさん祀られていることです。たぶん、旅の安全祈願のための道祖神なんでしょう。安全祈願とともに、旅人がたくさん往来する街道だから、悪い気が町に入ってこないように…という願いも込められているんだと思います。
さらに、旅人が迷わないようにという機能的な意味で、今でいう道しるべの看板が、昔でいうこの道祖神だったんでしょうね。道祖神と庚申塔…同じ石塔で似たような形態だったので、同じように考えていたのですが、昔の民俗風習について調べていくと、ぜんぜん違うものということが、わかってかました。
少しずつでも、知らないことを知っていくことは楽しいですね。