北九州市のホームページを眺めていると、北九州市に残る史跡についての情報を載せてくれているページがありました。そのなかに、「石坂の急坂」という史跡が、八幡西区にありました。参照:石坂の急坂 - 北九州市
この石坂という地区は、昔、長崎街道における難所だったそうです。
北九州市のホームページでは、「石坂の急坂」の場所が”石坂二丁目5番”と紹介されていますが、この場所では、なかなかそれらしい急坂はみられませんでした。あたりをぐるぐる回って探していると、偶然にこちらの庚申塔を見つけることができました。
「興玉神」地図:Google マップ
正面には「興玉神」…「おきたまのかみ」と刻まれています。調べてみると、興玉神は猿田彦大神の別名と紹介されています。興玉神 - Wikipedia
庚申塔に向かって右側に、「天保六」という文字がかろうじてみられます。天保六年、つまり西暦1835年の成立です。
この猿田彦大神に関係する神様が祀られているということは、もしかしたら、ここが昔の街道だったのかも…と周囲を探してみると、ありました。「石坂の急坂」です。「石坂の急坂」の看板も出ていました。
「石坂の急坂」場所:福岡県北九州市八幡西区石坂2丁目8
「石坂の急坂」地図:Google マップ
北九州市のホームページでは、「石坂の急坂」は次のように紹介されていました。
江戸時代、この地は長崎街道の黒崎宿と木屋瀬宿の間にある難所でした。(中略)かつては小嶺インターチェンジ付近から山を登り、頂上から「アケ坂」という急坂を下り、さらには「中の谷」の谷底から上石坂の急坂を登るという難所でした。このため、大名でさえも駕籠を降りて歩いたといわれています。
地形図で、このあたりの地形を確認してみますと、山あり谷ありの昔の地形は残っておらず、「千代」という住宅街へと変貌していました。
google mapでみてみても、高低差はほとんどなさそうです↓ 手前に見える赤丸が「石坂の急坂」で、その前に広がる住宅街が「千代」という地区です。
今回は、庚申塔のおかげで、たまたま見つけられた街道の跡でしたが、長崎街道がどこをどんなふうに通っていたのか、関連書籍などを読んで再度確認してみたいと思いました。